呆然感が脳ミソの大部分を占めていなかったと言えば嘘になる。それでも決意新たに気持ちを落ち着けて将来的なビジョンをイメージしなければいけなかった。どのくらいの時間が流れたのか、なんて気にも留めなかった。一先ず落ち着きを取り戻し親父へ連絡することにした。さすがに事態も事態だったので親父はしばらくの間、沈黙だった。もちろん気持ちは十分理解出来る。何十年も連れ添ってきたのだから無理もない。ただそこが冷静なのは和田家の親父ならでの気質はだろう。しばらくして一言、後はおまえに任せる!、と発した。親父の器量の大きさを一瞬触れることが出来たような気がした。無論、改めて気を引き締め直したのは言うまでもないことだ。恐らく親父としても、息子に教えなければならない時がやってきた、と確信したに違いない。良くも悪くも親父は親父としての覚悟を決めたのだと悟った。理解するのにそんなに時間は掛からなかった。その一言に何もかもが集約されていたように思う。
おまえは和田家の長男やぞ!またワシの時も頼まんなアカンのやからええ勉強や、と言わんばかりにこの言葉の中に親父らしい言い分を感じた。確かにそうだ。何だか生まれて初め長い月日を経てようやく「長男」になれたような気がした。小さい頃からズゥ〜〜〜ッと親父とは啀み合って来た。昭和の怒濤を血気盛んに生き抜いてきた親父、頭と体を真逆な程に磨き倒し起死回生を図った息子、そんな異色の人生を歩んできた二人の人間性が折り合うはずなんてまず有り得ない。お互い良い意味で異常だったからだ。親父とは犬猿の仲以上に激しい仲だったと今の今まで確信し続けていた。十代の多感な頃から極端極まり無い程、意見の言い合いが勃発し激しく打つかっていた。挙げ句の果てには二十歳の若かれし時でも大喧嘩。今思うとなんて大人気なかったのだろう。大学であろうと結婚であろうと何事も相談無しに自分自身で決めてしまっていたのだから無理も無い。普通でない事が普通である、という環境にお互い浸っていた。啀み合う、という状況が普通だったのだ。けれどもそんな啀み合いも母親の一件で大きな変化が起きた。過去二十数年以上もの啀み合いなんて無かったかのうように、簡単かつ単純に互いが互いで吹っ切れていたことに気が付いた。啀み合ってきた訳では無く、ただお互いの主張が噛み合っていなかっただけなのだ。親父としては、息子が自分自身の意見や主張を持っている、ということに喜びを感じていたものの、それが噛み合ないことに長い間、苛立を感じていたようだ。本質はクリアーなものだった。澄み切った空を眺めた時に晴れ晴れしい気持ちになる。それとどこか同じような感じに一瞬で変化した。15年20年も啀み合っていたのに、まるでそんな状況なんて一切無かったような感じになったのだ。それがたった一言二言交わしただけで変化した。特に親父も私も特別な言葉が互いに交わされた訳ではなかったが、気持ちが通じ合えたことを瞬時に実感した。両親が昔から発していた言葉をようやく理解出来るようになった自分がいた。親父と分かり合えることが出来たと同時に、自分自身で自分自身が成長する、という意味を理解出来たのだ。
後は俺に任せておいてくれ!、という言葉が無意識の内に自然と口から出て来た。その言葉を耳にした親父から今まで感じたことの無いような雰囲気が漂ってきて、わかった!後は頼んだぞ、という一言を発した。その後どのくらい時間が過ぎたのかは定かではなかった。それに何を話したかもあんまり覚えていない。けれども電話越しで長時間話をしていた。今までの何かを埋めるべく互いが互いに話をしていた記憶だけがとにかく存在していた。悲しくもないし悔しくもないのに、なぜか自分でも不思議な感じで電話の最中、涙だけが止まらなかった。心の底から両親に感謝やら反省の気持ちやら、何が何だか分からない複雑な気持ちを抱いていた。これは自分の転機と言っても過言ではない。20代後半の大きな出来事だ。もっと大きな視野で、もっと大きく生きなければならない、と自分にとにかく言い聞かせ続けた。母親と親父は自分達の人生を掛けて我が子に、思慮深く考えて即断即決で行動せよ、という力強さを言葉ではなく行動で教えようしていたのだ。昔から跳びっきり厳しい両親からの制裁は山程あった。けれどもそれは親心。社会で生き抜いて行く為には必要不可欠なのだ。この母親と親父が私の両親で本当に良かった。生まれてくることが出来て本当に良かった。ちなみに、行動こそ発言である、という考えは受験塾家庭教師で今でも生き続けている。