トツゲキ人生「瞬間」

1つ1つではあったが受験塾家庭教師の骨組みもカタチ創られていく内に、少しずつではあったが余裕という摩訶不思議な感覚に浸れるようになっていた。そこで前々から「金融取引」というモノを出来れば勉強したかった事もあり、そこへ来てJALの騒動も重なっていた事もあったので、善は急げとばかりに近くの証券会社に赴き、とにかく右も左も何にも分からないんですが株というモノをやってみたいんで教えて下さい!、 という主旨を恥じらいも無く若僧らしい熱っぽい感じで話をした。それからと言うもの証券会社に毎日のように足を運んだ。それも弁当持ちで毎日のように足を運んだのだ。株式、証券、為替、という違いはもちろんの事。買う、売る、差額で利益を得る、差額で損失を得る、というような株式投資の基本的な方法から社会の動きや要人の発言の重要性に至るまで、そんな当たり前の事すら知らないズブの素人でもある私にでも、窓口担当の方は一から十まで1つ1つ丁寧に教えて下さった。ちなみに知識を植え付ける為のセミナーとかには一切参加する気はなかった。如何せん昔から学習塾のようなモノに群がるのは苦手だったからだ。セミナーに通ったから、と言って、株の本を買って読んだから、と言って時間とコストが掛かって仕方が無い。現場で闘っている人達と生の状況を踏まえた上で話をした方がより一層効果がある。ましてや無料だ。論より証拠であり、百聞は一見に如かず、なのだ。一様に説明をして下さり、自分自身の中でも理解出来つつあったので次なるステップの、口座をつくる、という作業に進んだ。口座と言っても銀行の口座とはまた少し違っていた。言うなれば金融商品の売買をする為だけの口座だ。間違いなく面食らった。とりあえず無け無しのポケットマネーを元手に1ヶ月というスパンも決めて勝負をする為の準備を整えたうえで口座を開設することにした。時が経つに連れて自分がどんどん社会の一員になっている事を実感をしていた。

いよいよ現実的に、買う、という事をやってみることにした。当時はJALで大きな騒動が起きていた。けれども恥ずかしながらも、それがどんだけ大きな騒動なのか、は間違いなく理解不能だった。自分の中では今更、誰に聞く事も出来ずにいた。この一連の騒動に乗っかってみるべく売買というモノに挑戦してみることにした。大前提的に分かっている事としては、安く買って高く売る、ということだ。一見すると簡単なことだ。けれどもそこには難しさとオモシロさが隠されている。買うという判断をする、だけで大きな勝負心みたいなモノが心の中で膨らむのを理解出来た。決断をする為には社会事情を徹底的に集めなければならないのだ。単に、買う売る、ではないのだ。買っている人達や売っている人達は各所様々な情報を集めて根拠を持った結論に従って、買う売る、という末端の判断を繊細にかつ思慮深くしている。だから彼等は少なくとも大きな損失を抱え込むことはないと理解出来た。これは実際に、買う売る、という寸前に立ってみて初めて分かったことである。この騒動をキッカケに様々な事を学ぶコトが出来たし、現場の熱も思った以上に感じることが出来た。結局のところ1ヶ月間というスパンを事前に設定して1円でもプラスになれば良い、という目標を心の中で掲げながらも最終的には1ヶ月も立たない内に口座の資金が底をつき、取引を断念せざるを得なかった。でも不思議と手痛い損失とは思わなかった。むしろコレは今後の長い人生を考えると有益であるに違いないと悟っていたからだ。

この経験から、リスクマネジメントの重要性、に大きく気付いた。これは実際、今の自分にも結び付けることが出来ている。大きなリスクと小さなリスクがあった場合、小さなリスクを得たとしても、それは言うなれば大きな効果と言える。よって小さなリスクならば十分に巻き返すことの出来る余白が残されている訳だ。ここで十分に注意して欲しいコトは、リスクを負いたく無い!、という私情を挟むこと。これは結局のところ大きなリスクを掴まざるを得なくなってしまう結果に結びついてしまう。いつまで経っても勝負が出来ないばかりでなく、いつまで経っても成功への切符を見付けることが出来ない。チャンスを得られない、というリスクこそが最大のリスクと考えるべきなのだ。負わなければならないリスクは必ず負うべきで、それをコントロールすること最大の効果に繋げれば良いだけなのだ。私はこの度の株式投資により小さなポケットマネーは1ヶ月も経たない内に底をついたものの、残された時間と用心深さ、そして行動力と情報の収集と判断方法を得ることが出来た。これは法人化への構想が再び動き出す瞬間でもあったのだ。

トツゲキ人生「自負」

無事にブログも立ち上げ次いでホームページも立ち上げ、そしてタウンページの原稿も滞り無く一様に完了させ比較的、落ち着きを取り戻すことが出来ていた。そんな時、自分の心の中で1つ気付くコトに遭遇した。それは、毎日のように書くんだ!、と決め込んだブログの執筆である。今も昔も変わらず本当に毎日、毎日、毎日のように書きまくっている。とにかく習慣化させるべくして当時は日々、書きまくる必要があったのだ。けれども次第に指先と頭と精神に痛い障害を及ぼすようになった。要するにネタが無いのである。とは言っても無性な程に時間ばかりが過ぎていく。兎にも角にも複雑な気持ちとなっていたので、とりあえず常規を異する為にヤケクソに思慮深く考えてみることにした。壁に打つかる、というコトはそういうことなのだろう。

最初は、家庭教師だから教育業だから、と言って視野の狭い考えでブログを書き始めていた。けれども徹底的に考えた挙げ句、勉強や学習に関わるようなコトを書かなければならない、と別に決め付けて書く必要は無いと我に返った。ブログを書く為にネタを探すのは何だか間違っている。そんなのは自分のヤリたかったブログではない。ブログ、というモノはもっと自然でかつ幅広くて自由でユーモアに溢れて良いはずだ。そこで、ブログを書く為のネタ探し、というコトを辞めることにした。自分自身の生涯をより一層謳歌させれば自然と書くコトが出来るはずだ。そしてそれらをブログというデータベースに足跡としてマトメて保存する、という意識にしておけば良い。今後は誰でも見る事の出来るバックアップとしてブログという媒体を有効活用することにしたのだ。我が子が大人になってからYahoo!やGoogleといった検索サイトで自分の父親の生涯を知ることが出来るならば、確かに最初は小恥ずかしくても、それを上回るオモシロさを感じてくれるに違いない。言い訳紛いの期待は時に大きな効果となるだろう。何事も視点を変えて取り組めば漸進するものだ。

善は急げとばかりに思考を180度転換。何だか不思議だが活力がいつもと違っていた。ネタを落とし込む作業から解放されたのだから当然と言えば当然だろう。むしろ自分自身の有りとあらゆる考え方や動き方をブログに落とし込めるのだから日々、楽しくて仕方が無い。朝昼晩で美味る自分の食生活に始まり、大学時代の思い出や120%私事的なコト、さらには自分自身の趣味や醍醐味や好きな事、そして受験塾家庭教師の組織創りのヒント的な様々に至るまで縦横無尽に書き綴った。けれどもコレだけでは終わらなかった。調子にも乗るべくして、もっと挑戦的な勝負をやってみたくなったのだ。良くも悪くも、狂っている、としか言いようが無い諸行。その諸行とは受験塾家庭教師の根幹に迫る内部情報をとことん公開することだった。打ち合わせの秘技的な提案書データベースや月毎にお客様へ提出している報告書データベース、無論それぞれの内容の公開に惜し気も無く踏み切った。恐らくこれは飲食店が自分ところの料理のレシピを公開するようなものだろう。リスク度外視で何だか無性にとにかく極力オープンにしたかったのだ。というよりも片っ端からオープンにしてやった。他社がどんな反応を示するのか、はたまた真似をするのか、という期待やら疑問やらが存在していたが、けれどもそれを上回る、他社には絶対に真似なんて出来っこないだろう?!、という自負の方が遥かに強かった。根拠無き感覚だったが、間違いではない、と確信していたのだ。勝負に賭ける感のようなものだろう。そんな変態な境地を辿ってみた末、自分が自分にようやく追い付きつつあった丁度その時、ブログへの愛着度を増す為にも今のブログに名前をつけるのも良いのではないか、というような棚から牡丹餅的な自分勝手なアイデアが浮かび上がった。とりあえずブログを毎日書いてるので、このブログのタイトルを「毎日ブログ」と命名することにした。

トツゲキ人生「開設」

ホームページやブログといったコンテンツを創るにあたり、これ程にまで体力が必要である事を話を進めていく内に初めて知った。無論、体力そのモノも限られていたので気持ちが折れそうだったが、むしろそれ以上に自分の知らないところでこんな事が世の中で、当たり前のように動き回っているコトにとにかく圧倒された。そんなコトすら知らなかった自分が恥ずかしくて情けなくて仕方が無かった。けれどもお取引先様いわく、コレは私達の仕事ですから分かんない事があったら何でも聞いて下さい!、という心強い一言。当然の如く心から安堵し全てを任せる事にしていた。

この制作は家庭教師というカテゴリの中で、自分達が実践してきたコンテンツをさらに見つめ直す良い機会ともなっていた。 私は「家庭教師業」という事業を営んでいる傍ら、家庭教師として日々の学習指導にも励んでいる。もちろん登録派遣ではない。事業運営そのモノも登録派遣業を営んでいる訳ではなく、純粋に「家庭教師業」をやっているのだ。そうは言っても世間一般の方々がそんなコトになんて気にも留めるはずがない。家庭教師を派遣してくれる業者だったらドコの業者でも良いはずだ。業界人でなければドコも同じと思ってしまっても無理もない。まぁ〜自然なことだろう。そんな根本認識を解消させて新しい息吹を吹かせる事は、私達が受験塾家庭教師であるからこそ成し得る必要がある。これは本当に難しく必要以上に時間も要してしまう。けれども動かなければ動きださない。だからこそ、その起爆剤としてホームページの心機一転があるのだ。ココは何だか違うから何となく連絡してみよう!、となれば大成功だがこの戦略が上手くいかなければ何もかも全てが終わりになる。一念発起だ。

そこで学んだのがフラッシュやムービー。それに紐付くように「素材」というモノも必要であると学んだ。当初そんな事1つも気にも留めていなかったのだが、ご提案を頂いて目を向けるキッカケとなった。何と無しにしか聞いた事が無かった為、理解するまでには多少、時間を要してしまったが新鮮な心地だった。一先ずムービーというは重たい?のでフラッシュを活かしてアプローチすることになった。そのフラッシュに反映させる素材がこれまた数が多くて良い体力。記憶オボロゲの数年前に、こんなんお金を出して買うヤツおるんか?!、と思った事があったが実際には結構いるようだ。今正に自分で手に入れようとしているからだ。ニーズのある所にチャンスは存在する。ただそこはやはり体力の関係上、フラッシュで活かす画像の購入には至らずフリー素材を使うことになった。恥ずかしながら既に打ち合わせ序盤の段階で体力もフルオーバーを期していたからだ。1度では出来上がらない!、と確信しながら以後2、3度のフルモデルチェンジを行って、本当に良いモノを創り上げることを決意した。向こう2、3年で効果と情報と体力を確保するのはマスト課題だ。とは言っても、やっぱり欲しいものは欲しい!、ということで1ページだけでもホンモノな素材を準備することにした。ただ半端な体力ではいけないだろう。半端な体力で次に繋げてしまえば、次も半端なものになってしまうからだ。

素材1つを準備する、にしても本気で取り組まなければならない。そう考えを張り巡らせながら美容院でカットしていた時の雑談で、良い写真屋さんがある、という情報を得る事が出来た。美容院での雑談でもなかなか良い情報を得られるものである。そして早速当日、連絡をして撮影のご予約をお願いさせて頂いた。実はこれがism様との初めての出会いだ。偶然というのは恐ろしいもので地元で、いいね!、を発掘してしまったは救いだった。良い出会いが重なっていたのも幸いし、トントン拍子で撮影に漕ぎ着けることが出来た。打ち合わせ無しの一発当日、ホワイトを基調として上半身と全身の2パターンをお願いした。あんまり詳しい事も分かんないし、プロはプロに任せる、という考えが自分には根付いていたので、むしろ余計なコトは一切言わなかった。これまた全てをお任せした。初めてのビジネス撮影でめちゃくちゃ緊張していたものの当のカメラマンは笑顔で和ませてくれた。何度も何度もパシャパシャと撮影をしていくに連れて気持ちも少しずつ落ち着いていった。ホームページで活用させて頂く旨をお伝えしていたコトもあって、翌日早朝には納めて頂いた。それは生まれて初めて素材にパワーを感じる瞬間でもあったのだ。

これでホームページ制作にあたっての大凡一様の準備が整った。契約も済み、コンテンツ骨組みも明確になり、素材も準備完了し、そして莫大な数の原稿を整えて、それぞれ提出を滞り無く完了。担当者様からも、また出来上がってたら連絡します!、という言葉を頂いたので後は待つばかり。その間私は私にしか出来ないことを専念することにした。それはブログの書き溜めである。何もかもが初めての試みである、と共に今後一生、家庭教師でやっていく決意が固まっていたからこそ今でも出来ているのだろう。そして大凡1、2ヶ月程度が経過して完成の連絡があった。出来ましたよ!、という言葉を聞いて心身共に身震いが起きたのは記憶に新しい。電撃が走ったからだ。全てのページの確認と帳尻を合わせて2009年05月22日にホームページとブログの両方共を滞り無く開設することが出来た。安堵感と不安感と感謝の気持ちが入り交じる複雑で不思議な気持ちだった。そして、それから3年弱が経過し今では当時の効果からすると28倍程度の効果を得られている。その介もあって経費を除く何もかもが安定推移の右肩上がりとなってきているのだ。あの時に勝負を掛けておかなければ今の受験塾家庭教師は存在していなかったと言っても過言では無いだろう。

トツゲキ人生「異端」

ホームページ、ブログ、ネットワーク、フラッシュについて様々かつ1つ1つ丁寧にご説明頂いた。このようにして基本的な事を勉強させて頂きながら、自分の考えをその考えに少しずつ重ねるような感じで変化へ導いていった。一歩一歩ではあったが話を進めさせて頂く最中、自分の心と頭がフル稼働。ほんの数分程度の間であったが、その間に練り上げたイメージが少しずつ固まりつつあった。そして打ち合わせもいよいよ佳境に差し掛かり、ホームページ制作を改めてご依頼させて頂くことにした。実のところこの光景は数ヶ前お電話でアドバイス頂いた時に一瞬垣間見ることの出来た光景でもあったりする。その時の光景に従って決断すべき決断を得た。

そこで話に深みを増す為、ホームページを構築するうえで大切な3つの柱をご相談させて頂いた。まず1つ目には、教育業っぽさ家庭教師っぽさを一切廃除した真っ白い透明感のあるようなイメージを受験塾家庭教師の顔にしていく、という根本的な考え方が存在していた。教育業だから、と言って教育業っぽくしちゃ〜何の面白みも無い。せっかくホームページを一新するのだから何か面白みがあっても良いんじゃないのか、という思いが強かったのだ。真っ白い透明感のある・・・、というポイントを1つの基調としてクールでスタイリッシュなホームページに仕上げることを目指した。次に2つ目には、知りたい情報をスグに手に入れるコトが出来る環境に付加価値を見出したい、という狙いがあった。調べるサイドの手間隙を極限にまで抑えるにはクリック数を極限にまで抑えて頂く必要があった。無意識の内に起きるスピード感に価値を持たせたかったのだ。早く調べて早く比較して早く問い合わせして早く決める、というロジックをお客様の手元で自然と定着させるように働き掛ければ全体的なモタモタ感が払拭される。扉を開けばスグそこに自分の知りたい情報がある、という環境を手にして頂くコトを目指した。最後3つ目には、インパクトのあるフラッシュをほぼ全ページに設置する、という新しく気付いた戦略があった。せっかくやるんだからフラッシュをとことん活かしたいと考え、ほぼ全ページに入れることで執拗なまでのインパクトを存在させることが出来るのだ。実はこの戦略は構想を立てていく内に気付いたものだった。実のところコレがキッカケで、イメージ画像の奥深さや画像の持ち得る力強さを知ることに繋がり、画像という世界にのめり込んでしまうキッカケともなった。

次にホームページとブログを組み合わせることをご提案頂いた。無論これはご提案頂く以前から個人的にもヤリたかったなので、話は思いの外スピーディーに進んでいった。ホームページとブログがどのように結び付くのか、という期待を大きく持ちつつ御説明頂く内容にトキメキを感じていた。普通に見えるが普通のブログじゃないよ、という言葉が特に印象的だった。増してや書けば書く程に大きな効果が得られるというもの。心の中で、よし!!毎日書くコトにしよう!!、と迸るようにして決意した。小さい頃から一旦始めると、辞める、という結論に至るまではなかなか時間が掛かっていた。そんな訳で毎日書き続けるなんて大してストレスを感じ無いと分かっていた。当然どんな時も休まないだろう。その為にも自由な感じで縦横無尽に書いてみることにした。増してや書き続ければ書き続ける程に良い効果が得られると聞けばそれに越した事は無い。もちろん大変なのは大変だが、そもそも大変なコトをやろうとしているので大変と思うのはむしろ正常。習慣性を宿せばそんな大変なコトなんて無いだろう。何事も大変と思わなくなるまでが大変なだけだなのだ。

トツゲキ人生「熱望」

通夜や葬式と言った年末年始のバタバタ劇も一様に幕を閉じた。とは言っても目には見えない様々な問題が幾つも幾つも残されていた。要するにお金の問題だ。誰も知らない多くの状況が思いの外明るみになれば、仲良しであっても近親者であっても直接的に関わりのない周囲は、そそくさと離れていってしまう。お金にはそういう魔力があるのだ。そういった光景に人間の冷たさをしみじみと感じた。誰かがそれらを解決しなければならないのに知らぬ顔して静かに去っていく。何だか虚しくて残念でならない。良い事は言えども状況如何で思わしくなければ一変する。そんな時、専ら本質は行動に表れる。 当然の如くこんな状況は大嫌いだ。悔しさと憤りが私の心に火をつけた。こうなったら何もかもキレイにしてやる!、という意気込みで1ヶ月余り徹底的に動きまくった。紐付く問題を1つ1つ確認しては解決する、という繰り返しだったのだ。

そうこうしている内にそろそろ四十九日を迎えつつあった時、ようやく全ての問題も解決し落ち着きを取り戻しつつあった。ちょうどそんな時、ふぅ〜〜〜ッ!!、となって珍しくも少し体調を崩してしまった。久し振りに年齢の重さを感じた瞬間だっただろう。恐らく年末から張り詰めていた何かが一瞬で解き放ったのだ。まぁ〜特に寝込む事も無く最後の締めに相応しく四十九日の段取に勤しむことになった。けれども仕事をしながらの問題解決だった事もあり多忙を期していたので、この時ばかりは一番実家に近い身内に簡単な段取を頼んでおいた。とは言え全ての下準備は全て整えていたので、後はお寺やお坊さんやご近所さんに声を掛けて見張るだけ。さすがに単純作業だ。そして四十九日当日、驚くべき事が起きた。なんと頼んでおいた声掛けや見張りを完全無視の放置状態にしていたのだ。もちろんお坊さんもキョトン・・・。そりゃそうだ。さらに40人前やら50人前やらと言ったお寿司も虚しく届く。腹が煮えくり返るという衝動を軽く通り越し心底情けなく思った。言うまでも無く親父も苦笑い。結局、四十九日を迎えたのは私と親父の二人だけだった。みんな自分の事しか考えていない者が多過ぎる。近親者ですらそうなのだ。いくら涙を流していたとしても行動がその本質を物語る。ただ私は最後の最後まで長男としての宿命を果たした。

悔しさは消えぬまま、それでもー区切りを付けることした。いつまでもクヨクヨしてはならないからだ。とりあえず母親の残した問題を解決する為に準備しておいた体力も多少なりとも残っていたので、この機会に自分自身の大きな変革に繋げるべく、満を持して株式会社ディフェンス関西営業所様へのご連絡を約束通り改めてさせて頂いた。大変ご無沙汰致しております!!、という電話越しでの第一声。そして直ぐに、是非ともホームページを創り直して頂きたい!!、と熱望し打ち合わせの設定をさせて頂きました。打ち合わせ当日、初めましての儀式に胸が高鳴る。ワクワクドキドキ以外の何モノでもなかった。次第に話し合いを深めていく内に自分自身の勉強不足、構想不足といった不足な部分が浮き彫りとなり反省の連続。さらにホームページ制作サイドのプロ意識に圧倒され感銘を受けること多々。自分では時間と知識が無さ過ぎる、という発見と認識を得ることが出来た。コンテンツを明確にする事、SEO戦略を広く深くするという事、そしてブログを書き綴るという事、これらの重要性を知ると知らないではホームページでの集客で大きく違ってくるのだ。正直この打ち合わせは私にとって予想以上の大きな転機となった。

トツゲキ人生「命日」

素晴らしいアドバイスを縦横無尽に頂いたので、言われるがまま見よう見真似に取り組み、そしてしばらく様子をみてみることにした。一様に取り組みも完了し落ち着きを取り戻したので僭越ながら静かにお礼をさせて頂いた。褒めてもらった上に意見やアドバイスそしてノウハウも下さった。そればかりでなく温かい言葉も頂戴したのだからコレは当然のことである。情報だけ聞いて、ハイ!さようなら、というのは例え電話越しであってもやっちゃいけないと肝に銘じている性分。いかなる状況でも力になって下さった方々には必ずと言って良い程、お礼をする、という儀式は礼儀である。お金は無かったけど人としての心は持っているつもりだ。そんな訳でお礼の段取も気持ちを込めて完了させて頂いた。気が付けば期節は既に10月11月に差し掛かっており、熱い!熱い!熱い!と口癖のように毎日言っていたのがほんの数日前となっていた。どことなく懐かしくて涼やかな陽気を受けながらも、毎日が多忙以外の何ものでも無かった。知らぬ内にタウンページの広告も新しくアップされる時期を過ぎていた。ただ幸いにして比較的思いの他、問い合わせ件数も増加傾向にあったので効果は出ているのだろう。また素晴らしい出会いも得られたので、今年も一安心な気分で年末年始を過ごせるような気がしていた。

けれどもここに来て、母親の容態は刻一刻と思わしく無い方向に進んでいた。11月中頃、母の掛かり付けの先生から一本の電話があり、大切な話をしたいから病院に来て下さい、との事だった。とにかく重々しい空気だったので電撃で駆け付けた。到着してスグに小さな部屋に通された。挨拶も手短に様々な資料を見せて下さり最後に先生から一言。延命治療はしますか?、という問い掛けがあった。ついにやってきたのか?!、と心がギュッとなりながらも、延命治療はしなくても良いです、と即断。この事は事後報告ではあったが親父にも連絡を入れ親父の意思を確認した。ただ親父は親父で祖父の状況を脳裏に焼き付けていたこともあり、この件での考えは既に一致していた。既に互いが腹を括っていたのだ。任せる、という言葉の重みを思い知った。そうして最後に、先生!余命は後何ケ月ですか?、と1つだけ大切な質問をした。後1ケ月か2ケ月が勝負だ!、と真っ正面を向いて告げて下さった。先生や病院には感謝の気持ちでいっぱいである。

どうせ最後を迎えるなら穏やかな気持ちで苦しまないように最後を迎えて欲しい、とばかりに立ち話で耳にした「ホスピス」というところを懸命に探しまくった。そこで見付けたのがマリア病院。即日、面談のアポをとり母の代わりとして面談に赴いた。入院している病院でも、場合によっては紹介状を書いても良いよ、と仰ってもらっていたので期待を持ち1、2時間程話をした。幸いにして翌年一番で入院出来るようになり電撃で予約を済ませた。もちろん誰にも気付かれないように手当たり次第の努力を敢行した結果であった事は言うまでもない。他にも自分に出来ることをとにかく考えた。良い思い出を創ってもらう為に片っ端から連絡しまくったり訪問しまくったりした。母親の職場、携帯電話のメモリーに入っている友人、高校の頃からの古い友人、ご近所の腐れ縁、とにかく面識のありそうな人達にアポをとって懇願した。一生に一度のお願いです!母はもう長くありません!どうか最後に良い思い出だけでも創りに来てあげて下さいm( _ _)m、と恥ずかしさなんて度外視だ。我が振りなんて構ってられない。一人でも多くの方々に来て頂きたかったのだ。

知ってか知らずか、私の携帯電話へ母からの連絡が入ってきた。アンタにちょっと話したいことがあるんや!来てくれるか?!、というものだった。既に携帯電話の声は何を言っているか分からない状況だったが、とにかく来てくれ!、という感覚だけは伝わっていた。親子であるからこそだろう。四方八方へ連絡しまくった件で怒られると思いながらも病院へ赴いた。部屋に入る寸前、扉を開けようとした時、何だか嫌な気持ちになった。それでも何の気なしに部屋に入ってその光景に息をのんだ。食事をした形跡がほとんど無いのだ。要するに点滴漬けということ。ご飯を食べる力どころか携帯電話のボタンを押す程の力もない。挙げ句の果てにほとんど目が見えていない状況に陥っていた。病気の進行が早過ぎるのは一目瞭然。それでもさすがに息子が来たことぐらいは判別付いていたようで私が部屋に入るや否や、来たん?ちょっと聞きたいんやけどなぁ〜アンタの年末の休みはいつからや?、と開口一番。正直言って拍子抜けした。12/28ないしは12/29やで、と普通な感じで答えた。その後スグに、アンタはアンタのせなアカンことがあるんやから体に気を付けながら集中せなアカン!!、と母のいつもの尖った物言い。その返しとばかりに、そんなこと分かっとるわい!!、と強気な物言い。でもいつもと違う感じに息をのんで唇を噛み締めた。

いよいよ師走の寒い時期に差し掛かり救急車の音や携帯電話の音に敏感になっていた。そんな緊張感のある一夜、とあるお客様の授業中に電話がずっと無言のシグナルを発していた。休憩時間に少し確認すると全て身内絡みからの尋常じゃない程の着信表示だった。休憩時間とは言っても授業中の小休止なので、さすがに電話には出れなかった。というよりも出たく無かった。既に用件が分かっていたからだろう。もう心の中では、すまない!オカン。頼むからもう少し頑張ってくれ!、と心の中で願いつつ心を鬼にして電源を切った。それは仕事に集中する為だ。不思議なもので電源を切ると気持ちも自然と切り替わり、いつも以上に無心に目の前の授業に対して専念することが出来た。ようやくその日の仕事も無事に全てやり遂げて電源を復活させた。留守電には数件程度のメッセージが入っていたが1、2件聞いて全てのメッセージを削除した。なぜなら全て同じ用件だと確信していたからだ。とにかく弟に連絡をとって状況が安定している事を確認しそのまま帰路についた。その日を境に翌日、翌々日もとにかく顔を出せるだけ顔を出すようにしていた。しばらくは比較的、容態も安定してはいたのだが、そう長くは続かなかった。

年度末最後の仕事を終え、いつものように帰路に就いた。自宅に到着するや否や何も食べずに布団に倒れるかのようにしてバタンキュー。朝まで爆睡してしまっていた。何もかもを一人でこなしていたので、心身ともにヘトヘトだったのだろう。気が付くと既に朝。耳元で電話が鳴り響いていたのもあり目が覚めた。電話に出るといきなり、もうアカンかもしれへん!早く来てくれ!!、という連絡を受け飛び起きた。50分で必ず到着するとオカンに伝えてくれ!、と言って急いで病院へ向かった。もう一心不乱であった。病院に駆け付けると周囲は呆然。母の目は虚ろな感じ、既に人工呼吸器無しでは自分で呼吸すら出来なくなっていた。けれども何かを伝えようとしていたのを感じたので、耳元で声を掛け唇を読んだ。そこには振り絞るように声にならない声で、なる!アリガトウ!!、なる!アリガトウ!!、と何度も同じことを伝えようとしていた。オカン!早くユックリ休んでやぁ〜!後の事はどないでもないわい!!、といつものような返しを耳元に添えた。一瞬、見が合って微笑みながらユックリと目を閉じたまま目が覚める事は無かった。それは12/28。私の仕事が休みになった日のことであった。全ての会話が意味を成していたのだ。

トツゲキ人生「断腸」

このようにしてタウンページの戦略をほぼ創り上げることが出来つつあった。特に何の根拠も無かったが何だか分からないけど、そんな感じがしていた。これはほぼ直感である。そんな勢いも止まることなく次なる戦略に勤しんだ。タウンページを漸進させることが出来たのだからホームページも漸進させることが出来るに違いない、と意気込んでいた。当時はただただ、ホームページを持っているだけ、と言っても言い過ぎではなかった。正に陸の孤島でSOSを待っているだけのようだった。ホームページからの問い合わせ件数は本当に少なかったのだ。タウンページによる広告効果の比では無かった。とにかく何とかしなくちゃいけなかったが、何が分からないのかが分からない始末。だからと言ってタウンページの戦略をホームページの戦略に重ねてみてもピンッとこない。原稿内容の完成度が高まるだけで、今までやってきた事にはそんなに大きな変化を及ぼす程では無かった。何か今までと違ったことをやんないといけない、というのは従順承知のうえだ。それでも何から手を付けて良いのかサッパリ。出来る事と言えば、考える、ということだけ。とにかくいつもの如く考えるしかなかった。明けても暮れてもいつものように考えた。人間というのは恐ろしいもので、経験が無くても考えて考えて考え抜いて抜く程に、例え正解を導けなかったとしても良いアイデアに繋がるヒントを導き出すことが出来るようだ。そこで行き着いたアイデアは、ホームページとネットワークとユーザーを一旦切り離して結び付ける、という考えだ。それが説明付けることが出来れば恐らく上手い具合に成り立つはずだ。

お客様(ユーザー)が受験塾家庭教師(ホームページ)に結び付くためには道(ネットワーク)が必要である。もちろん当たり前の話だ。最初にユーザーとホームページそれぞれについて考えた。家庭教師をお願いしたいお客様(ユーザー)が、自宅のパソコンを開いて家庭教師業者を探そうとする。確かに一般的にはそう考えるのが正常だろう。そこへ来て私は異常なのでそうは考えない。家庭教師をお願いしたいお客様(ユーザー)は、自宅のパソコンを開いて家庭教師業者を探そうとしているのではなく、自分達の欲するニーズの接点を見付け出そうとしているだけにしか過ぎません。これはユーザーサイドで無意識の内に起きる衝動だ。ゆえに誰も自覚することは出来ない。無防備な折、無意識には逆らえないものだ。その事を理解しているからこそ受験塾家庭教師(ホームページ)には、そのようなニーズに一致する表現ないしは行動をタウンページやら既存のホームページやらでシッカリと実践させている。これはタウンページによる効果の程を考えると説明がつく。考えに効果的な要素が含まれていなければ、タウンページだけで問い合わせ件数を増加傾向に繋げるなんて決して出来なかっただろう。タウンページはユーザーとニーズがダイレクトに繋がれるインフラがシッカリと備わっていると言える。よってユーザーとホームページが結び付くことが出来る条件は大凡備わっていると結論付けても良いだろう。

そう考えると、どうしても浮き上がってくる課題としては、道(ネットワーク)の存在がある。エスカレーターのような動く道、アスファルトのような固い道、レンガ敷のようなユニークな道、泥泥で何とも言い難い道、水溜りのような長靴じゃないといけない道、そんな有りとあらゆる道が存在している。それに伴って考えるべきことがある。それは道(ネットワーク)の整備だ。ユーザーに出来る限り目を向けてもらうためにホームページを素晴らしいものにする事に自ずと目を奪われがちである。この課題に気付く以前は最初、私もそうだった。けれどもそれだけではダメなのだ。ホームページばかりでなくホームページに来てもらう為の道(ネットワーク)も素晴らしいものにしなくちゃいけないのだ。そこで発見したのが「SEO」というキーワード。初めて見た時、それが単なるキーワードでしか目に映らず、まったくもってその性質が今一つよく分からなかった。もちろんだが「?」と思えば深く掘り下げて理解を試みるのは当然。全力で取り組んだのは言うまでも無い。体が砕けようが頭がパンパンになろうが、とにかく理解する為に、課題をクリアーする為に、道を整備する為に勉強しまくった。そして最終的に行き着いた先が「リンク」というものだった。これは私にとって唯一の行き止まりとなってしまった。SEOとリンクというキーワードが道(ネットワーク)を整備する手掛かりとなるのは十分理解出来た。同時に自分では到底及ばない次元のノウハウが必要であることも確信したのだ。恐らく樹形図的な感じで枝分かれしていくのだろうか、という疑問を何となく持てたが当てにはならない。増してやボヤーーーッとしか分からない。挙げ句の果てに何が何だかサッパリ分からないC言語やら規則性やらを覚えなければならない。こうなるともう手立てが無い。助けを求めるしかなかった。アタフタと動き回っているだけで既に限界には達していた。このままでは予想だにしない機会損失も生んでしまい兼ねない。これではダメだ。断腸の思いでホームページをイチからヤリ直す事を決意し、専門的なホームページ制作業者様の力を借りることを決めた。

パソコンを片手にパチパチ。とにかく兵庫県を中心に活動されていらっしゃる業者様を検索をしまくった。そこで幾つか目星を付けて、ホームページの一から十まで目を通し、不自然な部分の有無や文章的に情熱を感じるというところを基準に1つ1つ吟味した。さらにその上で時間を掛けて気になるホームページを自分の無意識の心中に従って絞りこんだ。基本的に一番最初に連絡させて頂いたところに、全てを一任する、と決めている性分がある。余っ程の事が無い限り次から次へと連絡したりはしない。連絡するまでに一週間から10日間は要した。一生良いお付き合いをさせて頂くことになるのだから、それぐらい用心深くても良いだろう。自分の理解と認識を1つ1つ落とし込んで行き、ようやく1つに絞り込むことが出来た。これが株式会社ディフェンス関西営業所様との最初の出会いだった。連絡するや否や、とにかく何をどのようにお願いすれば良いのか、サッパリ分からない感じでシドロモドロになりながらも、ご相談させて頂きたい内容を添えて一所懸命にお話をさせて頂いた。これを一人で作られたんですか?、という担当の方の驚き混じりの質問がとても印象的だったのを今でも覚えている。もちろん一人だ。経費削減というよりも予期せぬ事態に速やかに対処出来るような力を身に付ける必要があった為、時間のある限り自分でとことん創り上げた結果論だろう。電話越しではあったものの様々な質問にも答えて下さり、様々な提案もして下さった。加えて言うならば、まずはご自身でやってみてはどうですか?!、という言葉。これには大変感動を覚えた。一様にアドバイスも頂き、まずは自分自身で挑戦してみる大切さを実感すべきと胸に抱いた。そして自分をもっと鍛え直してから必ずお電話させて頂くことを改めて決意し、電話越しで頭を下げた。

トツゲキ人生「一喝」

これでもかぁ〜!、というぐらい毎日毎日毎日のように仕事に明け暮れていた。以前とは何だか何処と無くシッカリした面持ちで手元を捉えていた。無意識の内に自分でも気が引き締まっていたのだろう。タイミングもそこそこにタウンページの打ち合わせ日が差し迫ってきた。だから、と言って特別な戦略を練ったり大袈裟な準備をしたりしなかった。基本的にはぶっつけ本番型なのだ。勢い良くぶつけて跳ね返ってきたモノを拾い集めて考えて考えて考える。風呂に入ってる時も飯を食ってる時もトイレにいる時も寝るときも運転の時も、とにかくひたすら考える。全ての集合体が大凡良い感じで和み、そして重なった頃合いを見定めて一気にピンを打つ。これは私にしか出来ないことだし私がやらないといけないことだ。このスタンツで、成功体験を得た、というような確信出来る実感はない。けれども、大きな失敗に繋がってしまった、ということもまた無い。大きな失敗は必然的に倒産を意味するからだ。一寸先は闇である。

打ち合わせ当日、ご挨拶も早々に本題に入った。小さい会社の割には出稿数が比較的多いという事もあり毎年、必ずタウンページの営業担当の方と打ち合わせの機会を頂いている。実のところ結構、毎年楽しみにしている。新しい風を吹き入れることが出来るからだ。発想の坩堝、と自分勝手に心の中でイメージしている。そこへ来て今年ばかりは、もの凄く熱い担当の方だったので大きな期待を寄せた。昨年の実績を露骨なまでの数字で話したり、今年度の戦略に関わる内容を簡単に質問したり、2年後3年後に繋がる将来像を伝えたりした。とにかく100%信頼信用して全てをさらけ出して熱っぽく話した。それに夢中になって聞いて下さった担当の方も、幾つか提案書をお持ちしましたが持ち帰って今の話を重ねたうえで新しい提案書を持参します!、というものだった。一先ず10日程先に約束日時を決めて、その場を後にした。

そして10日後、、、。約束の場所で待ち合わせ。2度目の打ち合わせが開始された。早速、提案書に目をやる。今でも鮮明に覚えているがあの時の私の反応は本当に薄かった。見た瞬間に、何だか違う!!、と迸る。何が何だか分からないが何かが違うのだ。ただ1つ言えることは、違和感を感じる、というぐらいのことだっただろう。恐らくあの時、お値引き、というモノが存在するという事を知ったからだ。元より定価オンリーな価格帯でしか頭に無かった私にとっては、何だか不思議な感覚だったのだ。とは言っても、お荷物を背負わせるにはいかない、という気持ちが大きかったので事情を伺うべく当然の如く質問した。すると出稿年数やらサイズやらエリアやら、そのような様々な要素が固まって担当者レベル、マネージャーレベルで許可が降りれば可能なものだと説明を受けた。それでもヤッパリ何となくピンッとこなかった。料金は下がる、というのは確かに嬉しい。正直な気持ちだ。普通ならば飛び付くだろうが私は普通ではない。ここまで考えて下さったんだなぁ〜!!、とシンプルに嬉しい気持ちもある。でもやっぱり違和感は拭えない。提案内容に至っても落ち度なんて一切皆無に等しい。差し出してこられるカードも全てが一様に効果的なカードばかりだ。優秀な方じゃないとココまで完璧には出来ないのだろう。熟練の成せる業だ。疑問が拭えないまま結論が出ないまま、気が付けば同じような打ち合わせを2度、3度も続けていた。これではまったく生産性が無い。思い掛けないぐらい時間を要した。本当のところは2度目で決めたかった。恐らくそれが互いの思いの節だろう。でもやはりそこは妥協したくない。そんな葛藤の中、同じような打ち合わせが2度3度続いても決まらない、となると痺れを切らしてしまうのは当然。

いよいよ4度目にその瞬間がやってきた。打ち合わせも1時間2時間が過ぎ、いよいよ煮詰まってきた正念場。担当の方が一言だけ唐突に発した。そういう意味でお値引きを提示している訳ではありませんよ!!、と神妙な表情で一喝。その言葉に私は我に返った。確かにそうだ。いつの間にやらお値引き専攻で話が進んでいた。気が付かない内に決める為の基準がお値引きを軸としたカタチになっていたのだ。もちろん予算がいっぱいある訳でもないし、無いからこそお値引きをしてもらえれば大変助かる。その部分を熟慮して下さった気持ちも大いに分かるし有り難かった。担当の方には大変感謝している。しかしながら根本的にそういったコトで決めるべき提案ではなかったのだ。でもこれは担当の方の考えを見抜くことが出来る良い機会でもあった。お値引きというのはお互いの為にある効果と分かったのだ。それまでの考えを一瞬にして極端な程にまで改めた。むしろ無理矢理、振り出しに戻した、と言えるだろう。

ハッッッ!!、と気が付いた。元来より私は100円の価値のモノを80円で売りたいとは思わない。ましてや120円で売りたいとも思わない。100円の価値のモノは100円で売りたいし、むしろ100円で売るべきと考えている。それは値崩れが価値を崩してしまい兼ねないからだ。崩れた価値を元に戻す事は値引きをして得られる収益よりも一層大きな努力が必要となる。それは痛い程よく知っていた。目先に捉われてはいけないのだ。この度の打ち合わせで、高いから安くしてくれ!、と発したことなんて一度もないし思ったことすらも無かった。それが熱っぽく話をするうえで、お値引きをしてくれる!、という意識が常態化しつつあったのだ。ダメだ、ダメだ。こうなると話は早く回転していった。既に頭は金額度外視で思考回路が動く。もうこうなってくるといくら料金が掛かろうと関係ない。その時の1分は1時間のように思える程、長い時間が過ぎていた感じがした。手元の資料と頭の資料を元に問合件数から成約率を導き出して考えた。もちろん自分の思い込みな部分は幾分あったかもしれないが懸命に考えを漸進させた。

広告を掲載する本質を落ち着いて考え、知ってもらうコト、と自分の中で位置付けた。よって、決めてもらうコト、を期待してはならない。いかに知ってもらうことが大切であるかだ。知ってもらうことが、連絡する、に自然と繋がっていくと期待しよう。その衝動を引き起こすには内容を充実させる為にも目線を絞り込むべきと考えた。絞り込んでいく内にサイズを判明させることに成功したのだ。サイズが絞り込められれば料金を算出することが出来る。大凡のエリアを自分の就業範囲で呈してみた。多くの方々に知ってもらう為に妥協は出来なかったが幸いにもサイズの効果もあって思いの外、可能性を導き出すことが出来ると判明した。前年度で比較すると、サイズは小振りになったがエリアを広げることができ料金を抑えることが出来た。あの一喝あの一言が無ければ今のような結論には至らなかっただろう。私からの新しいカードは幾分、担当の方の動揺を誘ったかのうように見えたが、さすがに致し方ない。そのカードを見た時、これではお値引き出来ないですよ!!良いんですか?・・・。もちろん返事はYESだった。1ケ月も掛かった打ち合わせがたったが一瞬で幕を下ろした。当時の担当者様には今でも本当に感謝している。このキッカケがあり3年連続で前年度比広告費削減に結び付いているだけでなく、皆様のご愛顧を3年連続獲得することが出来ているからだ。

トツゲキ人生「長男」

呆然感が脳ミソの大部分を占めていなかったと言えば嘘になる。それでも決意新たに気持ちを落ち着けて将来的なビジョンをイメージしなければいけなかった。どのくらいの時間が流れたのか、なんて気にも留めなかった。一先ず落ち着きを取り戻し親父へ連絡することにした。さすがに事態も事態だったので親父はしばらくの間、沈黙だった。もちろん気持ちは十分理解出来る。何十年も連れ添ってきたのだから無理もない。ただそこが冷静なのは和田家の親父ならでの気質はだろう。しばらくして一言、後はおまえに任せる!、と発した。親父の器量の大きさを一瞬触れることが出来たような気がした。無論、改めて気を引き締め直したのは言うまでもないことだ。恐らく親父としても、息子に教えなければならない時がやってきた、と確信したに違いない。良くも悪くも親父は親父としての覚悟を決めたのだと悟った。理解するのにそんなに時間は掛からなかった。その一言に何もかもが集約されていたように思う。

おまえは和田家の長男やぞ!またワシの時も頼まんなアカンのやからええ勉強や、と言わんばかりにこの言葉の中に親父らしい言い分を感じた。確かにそうだ。何だか生まれて初め長い月日を経てようやく「長男」になれたような気がした。小さい頃からズゥ〜〜〜ッと親父とは啀み合って来た。昭和の怒濤を血気盛んに生き抜いてきた親父、頭と体を真逆な程に磨き倒し起死回生を図った息子、そんな異色の人生を歩んできた二人の人間性が折り合うはずなんてまず有り得ない。お互い良い意味で異常だったからだ。親父とは犬猿の仲以上に激しい仲だったと今の今まで確信し続けていた。十代の多感な頃から極端極まり無い程、意見の言い合いが勃発し激しく打つかっていた。挙げ句の果てには二十歳の若かれし時でも大喧嘩。今思うとなんて大人気なかったのだろう。大学であろうと結婚であろうと何事も相談無しに自分自身で決めてしまっていたのだから無理も無い。普通でない事が普通である、という環境にお互い浸っていた。啀み合う、という状況が普通だったのだ。けれどもそんな啀み合いも母親の一件で大きな変化が起きた。過去二十数年以上もの啀み合いなんて無かったかのうように、簡単かつ単純に互いが互いで吹っ切れていたことに気が付いた。啀み合ってきた訳では無く、ただお互いの主張が噛み合っていなかっただけなのだ。親父としては、息子が自分自身の意見や主張を持っている、ということに喜びを感じていたものの、それが噛み合ないことに長い間、苛立を感じていたようだ。本質はクリアーなものだった。澄み切った空を眺めた時に晴れ晴れしい気持ちになる。それとどこか同じような感じに一瞬で変化した。15年20年も啀み合っていたのに、まるでそんな状況なんて一切無かったような感じになったのだ。それがたった一言二言交わしただけで変化した。特に親父も私も特別な言葉が互いに交わされた訳ではなかったが、気持ちが通じ合えたことを瞬時に実感した。両親が昔から発していた言葉をようやく理解出来るようになった自分がいた。親父と分かり合えることが出来たと同時に、自分自身で自分自身が成長する、という意味を理解出来たのだ。

後は俺に任せておいてくれ!、という言葉が無意識の内に自然と口から出て来た。その言葉を耳にした親父から今まで感じたことの無いような雰囲気が漂ってきて、わかった!後は頼んだぞ、という一言を発した。その後どのくらい時間が過ぎたのかは定かではなかった。それに何を話したかもあんまり覚えていない。けれども電話越しで長時間話をしていた。今までの何かを埋めるべく互いが互いに話をしていた記憶だけがとにかく存在していた。悲しくもないし悔しくもないのに、なぜか自分でも不思議な感じで電話の最中、涙だけが止まらなかった。心の底から両親に感謝やら反省の気持ちやら、何が何だか分からない複雑な気持ちを抱いていた。これは自分の転機と言っても過言ではない。20代後半の大きな出来事だ。もっと大きな視野で、もっと大きく生きなければならない、と自分にとにかく言い聞かせ続けた。母親と親父は自分達の人生を掛けて我が子に、思慮深く考えて即断即決で行動せよ、という力強さを言葉ではなく行動で教えようしていたのだ。昔から跳びっきり厳しい両親からの制裁は山程あった。けれどもそれは親心。社会で生き抜いて行く為には必要不可欠なのだ。この母親と親父が私の両親で本当に良かった。生まれてくることが出来て本当に良かった。ちなみに、行動こそ発言である、という考えは受験塾家庭教師で今でも生き続けている。

トツゲキ人生「告知」

うたた寝とは言えども完全フリーズ状態での仮眠。夕べも遅く朝も早く、考え事に悪戦苦闘していたので無理もない。そう易々と頭が動く訳もなく、何なん?、とばかりにシッカリしない足取りで立ち上がり、目を擦りながらトボトボと母親と一緒に掛かり付け医師の元へ向かった。さすがは総合病院だ。待合室では大勢の患者さんがいた。そんな光景を横目に座るところを探していたのだが、少し奥のところにある待合室で看護師さんが手を挙げているのに気付いた。足早に寄ってきて、息子さんですか?、という問い掛け。ドギマギしながら返事をして私一人が入室することになった。無論、母親は外で待機である。入室後、挨拶も早々に何気ない会話をして下さる先生の説明よりもむしろ先生の目先に気を取られ、何処かで見慣れた数値の羅列を静かに読んでいた。そしてあるラインに目が留まり絶句。頭脳は停止状態。真っ白になった。聞かなければならない質問が頭の中で駆け巡るが、その答えは既に想定内の範疇。葛藤があった。知る為の質問というよりも確認の為の質問という方が意味的には近い。そして無意識の内に言葉がこぼれ落ちた。

「この数値・・・。先生!、もうレベル4ですよね。母は年内もちそうですか?」

私のこの一言が先生の表情を一瞬止めてしまった。説明も無しに数値を見たうえで的を得た発言を取り乱すことすらせずに冷静沈着なままで、尋ねにくい内容を逆に尋ねられたのだから無理もない。それを境に先生も察して下さり、検査で判明したいろんな画像といろんな数値を見せてくれた。恐らく本来説明しないような専門的な知識も添えて説明して下さったに違いない。話の内容からして十分理解出来る。陰り無く雲一つ無く説明して下さった先生には心の底から感謝の念を抱いた。それで十分だった。一様に話も終わり最後に先生から、本人に伝えるかどうか、を尋ねられた。もちろん私の気持ちは既に固まっていた。母親には残された半年程度という人生を有意義に使い切ってもらいたかったからだ。今まで親孝行と言えるような事は一切何もしていない。成博(なるひろ)という名前をつけてもらったのに自分自身、納得出来るような事なんて何も成し遂げてすらいなかった。本当に情けない人間である。だからこそ、告知をする、ということを先生に代わって私自身がしたかった。本当に勇気のいることである、と承知の上で先生に懇願し了承も得られた。これは、親子共々お互いに覚悟を決める、という瞬間。母親にとっても何よりの親孝行となるだろう。成長した自分の姿を見てもらう良い機会なのだから。

「お母ん、緊急入院やわ!、もう俺が勝手に決めたけどええやろ、、、」

その言葉が発せられる事を知ってか知らずか、終始落ち着いた様子だった。しばらくして入院の経緯や方法といった説明を受ける為、母が先生に呼ばれた。その束の間、母に気付かれることの無いように親父へ連絡をとった。それは母に変な心配を掛けたくなかったからだ。こういうことは自ずと分かるものだ。自ずと分かることは自然の流れに任せておけば良い。人として息子としての配慮だった。入院に関する説明も大凡終えて看護師さんと共に入院手続きを進めることになった。その間少し時間も掛かるので母から、自宅のベットのところに置いてある荷物を取ってきてくれ!、と言われたので取りに帰ることにした。既に一息つかないとやってられない心境だった。まさか、こんな事になろうとは想像もしなかったからだ。缶コーヒー片手に車に乗り込みエンジン始動。運転中いろんなことを考えて考えて考え抜き、そうこうしている内に何も考えがまとまらない間に到着。ベットの前の荷物を見てハッとした。全てが全てにおいて荷造りが整っていたのだ。ましてや普段から片付けないところが目を疑うようにキレイに片付けられていた。その光景たるは深呼吸をしても落ち着かない光景。母を超えられない偉大さを感じた。同時に母はもうココへは戻ってこないつもりだ、とも悟った。もう自分では理解していたのだ。頭が真っ白になった。もう言葉が出ない。居ても立ってもいられず早々に荷物を積み込んで車を走らせた。何処をどうやって走らせたかは全く覚えていない。気付いた時にはいつもの走り慣れた道を走り、そして病院に着いていた。再び深呼吸をして気持ちと表情を平常心に保った。ナースステーションで母の部屋番号を聞き、急ぎ足でフロア目掛けて駆け上がった。休憩所らしきところで準備が整うのを待っていた母に荷物を渡して、その場を後にした。これからヤルべき事をやらなくてはいけない。より一層決意が固まった。何事も成し遂げなければならない。それも絶対だ。