トツゲキ人生「汽笛」

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2007年1月下旬。とうとう今の基地へ引っ越してきた。家内の実家から目と鼻の先である、という立地条件も重なり功を奏して思い掛けない助けを得ることが出来ていた。だから、と言ってオンブに抱っこも嫌だったので早速、自分のヤリたかった事を実行に移すべく何も無い基地のリビングで生々しくコンセントを差し込んでパソコンを起動。火を入れると間違いなく戦闘体制に入ってしまい周囲なんて何も見えなくなってしまうのは言うまでも無かった。昔も今も電撃対応が当たり前。まず最初の儀式として自作ホームページの住所地を変更することにしたのだが、これが単なる変更では済まなかった。確実にモードチェンジのスイッチを入れてしまったのだ。この住所地は一生使っていく住所地なんだ、と思ってしまって、みるみる内に胸が高まる。そうなると大変で、落ち着く間も無く様々な諸手続きを出来る限り早く全て完了させるべく、銀行やら各省庁へ住所変更に勤しんだ。とにかくヤルべき義務に対して普段の仕事、普段の生活を送りながら何らコボす事なく手を尽くしまくった。そんなバタバタゴタゴタしていた最中でも、直前には確定申告というモノが控えていたり、愛娘の幼稚園入学手続とかもあったり、悪戦苦闘の毎日だったものの楽しくて楽しくて仕方が無い。もう目が回る程に大変だったが自分にしか出来なかったコトもあり没頭に没頭を重ねた。そんな最中の束の間に気が付くコトがあった。昨年の自分と今年の自分ではシッカリ感がまるで違う、ということだ。これは自画自賛でも何でもない。シンプルに気が付いたのだ。やはり未来が見えてくると自然と変化していくのだろう。1つ大きくなった、という気持ちを得られた事は日々、多忙を期している自分への御褒美として、とことん押し寄せて来る書類群のボッコボコに耐え凌ぐ活力に繋げたのは言うまでもないだろう。

強烈なスピードで1月末、2月末を経て、気が付いた時には既に年度末に差し掛かっていた。同時に支払い支払いのオンパレード。支払行進曲と名付けても良いぐらいに立て続けに伝票類が回ってきていた。挙げ句の果てにとうとう支払相談をせねばアカン状況に陥ってしまったのだ。ただ特に社会保険や税金関係が時期的に主流だった事もあって比較的、救いだった。とにかく自分の不甲斐無さを身に染みた。いろんな事がいっぺんにやってこなくても!!、という誰かのせいにしてしまう気持ちも無くは無かったが、スグに自分の計画性の無さに情けなさを覚えた。良くも悪くも良い反省である。心身共にテンション下げ下げな状態にも関わらず、役所の陣営は前向きに相談を受け付けてくれた。ただこの相談が私にとって実は、不幸中の幸い、となったのだ。本当に笑われてしまうが、キャッシュフロー、という言葉と意義を初めて学ぶ事が出来る良いキッカケとなったからだ。ただ何もこんな土壇場で身を持って知ることになろうとは予想打にしてるはずもない。現金が入る予定が十分あるのに手元にその現金は無い。とは言っても支払いは期日までにキチンと行わなければならない。行えば手元に現金は無くなる。状況によっては次の支払いが行えなくなり止まってしまうし迷惑を掛けてしまう。今回の相談ケースは要するに、運転資金の回り方にギクシャク感が否めず軽い自転車操業に陥っている状況である、という事を示唆され一件落着となった。家計からの捻出を余儀無くされるコトも状況によってはあるだろうけれど収支状況上、赤字、というコトにはなっていなかったので支払能力的には「大丈夫」という事実を導き出すことが出来たのが良かったらしい。それが要因ともなって前向きな相談を実現させる効果として上手い具合に働いた。これを機にキャッシュフローを肝に命じた動き方に変革を唱えることにした。

トツゲキ人生・シーズン1

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トツゲキ人生「原点」

早速、東さんに連絡を入れて家を建てる話を進行させた。家を建てる、という人生でも大きな買い物。サッパリ分からないことばかりだった。住宅ローン で借りられる金額は限られているし、親父から注いでもらった体力も全て頭金となった。無論、余剰力なんて皆無。ローンの完済やら税金やら保険料やらで消え てしまってドコも彼処も空っぽ。窮地に追い込まれていた。まぁ〜計画性なんてマルで無かったので後は残された時間とチャンスを活かして自分自身が徹底的に 頑張るしかなかった。

よし!!土地を買おうぅ〜〜〜ッ、

当時の認識は笑ってしまう程に勘違いばかり。「家を買う」という言葉の中に、建物を買う、という意味合いと、土地を買う、という意味合いが含まれる ことすら知らず、実際に購入するポジションに立って初めて理解したのだ。建物と土地は別々の考えを持たなければいけなかった。本来ならば前もって知った上 で行動に徹する必要があったが、状況も状況だったので止むを得ない。今思うと大変恥ずかしい話だ。家を買うコトばかり考えてお金を支払うコトなんて一切考 えていなかったようだ。いつもながらの行き当たりばったりな性分、自分でもこの習慣を変えたくて仕方がなかった。そう考えて調べを進めていく内に兵庫県が 土地の販売を行っているコトを知り、早々に手続きを済ませるべく神戸事務所にある窓口へ電撃訪問。その段階で衝撃的なコトを知った。実際のところ土地購入 には総額の1割程度が現金で必要であるというものだ。うそん!?、とばかりにたまたま握り締めていた事業資金と共に静かな相談。多少なりの自転車操業を覚 悟して、経済的に厳しい、という次元を遥かに上回りながらも吐き出す事を決断した。背筋の凍る思いだったが仕方が無い。大きなリスクを回避する為に小さな リスクを抱えるのも時と場合に応じて大切だ。 新たな問題が発生していたが土地を買えなくなるという大きな問題を解決することが出来た。

よし!!次は建物だぁ〜〜〜ッ、

土地の話も解決し、無事に建物の打ち合わせを進めることになった。とは言っても決めるコトはそんなに無い。予算なんて皆無だし借りられる余剰力も知 れていた。加えて言うならば頭金すらも微々たるものだ。抑えるべく部分を抑えるべく一番、資金を節約したカタチで建物を構想する必要があった。カタチを正 方形にする、窓やドアの数を少なくする、今しか出来ないコトは今する、という3つのポイントを主軸に考えを絞った。また外構工事については予算の問題が幅 を利かせていたので無視。担当の東さんからも、本当に良いんですか!?、という熱い念を押されたが奇しくも止むを得なかった。だいたい決まる事も決まって きて、いよいよが着工も開始。日取り通りに様々な工程が進んでいった。地鎮祭に始まり土地調査を経て基礎工事へと進んでいく。一番最初にベタ基礎が施行さ れて実際に建物が建つ情景が目の当たりにして、おおぉぉぉ〜〜〜〜ッ、と感動。下見に行く度にワクワク度数がマックスを更新していった。自分の基地が日々 築かれる感動があった。いろんな職人さん達の手が細部に至るまでタイミング良くスケジュール通りに進んでいく。当たり前のように丁寧に順序良く進み、期待 と喜びで浮き足立っていた。気が付けば、いよいよ棟上げの時がやってきていた。さすがにココまで来ると外形がほぼ完成しているので、将来的なイメージを掴 み易くなっていた。夏が過ぎ秋が来て、冬に差し掛かろうとしていた12月初旬。着工からわずか半年程度で建物自体は完成。家ってこんなに早く建つん だぁ〜、と出来上がってみて本当に驚いた。人間って本当に凄い。そして来る2007年1月下旬、待ちに待った引き渡しの時がとうとうやってきた。

ああぁぁぁ〜〜〜〜やっと出来たぁ〜〜〜〜ッ!!!、

思えば大変なコトばかり。本当にいろんなコトがあった。建物の確認、周囲の確認、スイッチ類の確認を担当の東さんと行う。1階から2階までを1つ1 つ丁寧に、そしてユックリと。全ての確認作業も一様に完了させて、最後で最後の引き渡し作業がやってきた。安堵感が満ちる空気の中、引き渡し書類への捺印 がとうとう完了。ようやくマイナスからの脱却を果たすことが出来た瞬間。自分にしか見えないバックグラウンドが脳裏を翔る。0というポジションに立つ事が こんなに大変だ、とは家庭教師を始めた当初、想像すらしていなかった。2002年1月に無茶苦茶な状態で結婚して、2007年1月に小さな小さな建物だけ ど、自分の基地を創るコトが出来たのだ。これで、ようやく大手を振って仕事をするコトが出来るし、受験塾家庭教師の良さを皆様に知って頂ける。絶対に諦め てはいけない、という気持ちを全身全霊に磨き続けた結果だったのだろう。とは言っても、この5年間は単なる序章にしか過ぎないはず。本当の闘いは、まだま だ始まったばかりなのだから油断は禁物。

よし!!ヤルぞッッッ、

<シーズン1・おわり>

トツゲキ人生「土俵」

しばらくしてから幾つか少しずつ連絡があった。 しかし、その結果は散々なものだった。甘さを宿した申請への結論なんて、やはり想定内の範囲でしかない。電話が鳴る度にネガティブアプローチ。地方銀行からもダメ、信金からもダメ、労金からもダメ、農協からもダメという結論ばかり。もちろん返事や言い方は穏やかそのモノだったけれども内容は背筋が凍り付く程に厳しい。それからも行き当たりばったりで幾つかお願いしまくった。だが各種様々な方面で当然の如くダメダメ光線。さらに兵庫県を飛び出して大阪、京都、奈良への銀行にも考えの幅を広げてお願いしたところでダメ。間違いなく手詰まりとなった。いや、でも違う。1つだけ残っていた。こんだけダメダメ光線を浴びると私も含めて周囲の温度差がとてつもなく冷めてくるのも無理は無い。けれどもココまで来て諦めてはならない。正に七転八倒であった。私は抱えられるだけ全ての書類を持参したうえで、SMBC姫路南支店を尋ねた。既に背水の陣と言っても過言ではなかった。藁にも縋る気持ちだったのだろう。当時担当して下さったのは松井さん。その時の光景は今でも思い出すと涙が出そうになる。失礼失敬はとことんあったに違いない。少し時間も頂けて話を真っ直ぐ聞いてくれた。仕事だから、良い融資の話だから、という事情が含まれる含まれない如何にしても親身になってくれていたのは十分理解出来た。

「和田さん!!、わざわざ住宅ローンを組む為だけに修正申告をしたんだよね。ダメだったら、どうするの?」

「松井さん!!、アカンかったらアカンと思うだけなんですよ。出来るからやってる、という感じは一切ありません。アカンのは100も承知です。ローンが通るからガンバル、ってのはそもそも話がおかしくて順序がマルっきり違いますよ。何でもカンでもやってみないと分からない事なんで、僕が出来るコトは何もかも全力を尽くすだけなんです。僕に出来ないコトがあるから、松井さんにお願いしています。言葉遊びではなくて心底、お願いしています。松井さんを信じてます。軽く聞こえるかもしれませんが今はそれを否定する要素なんて全くありません。もしコレでアカンかった時には単純にアカンかっただけの話なんで理解します。姫路を飛び出すという夢は露と消えますが、また改めて準備を整えて挑戦するつもりです。一寸の光だけを見せて下さい。どうか、どうか宜しくお願いします。松井さん!!力を貸して下さい。」

もし万一ダメだったら・・・、と思っただけで胸が張り裂けそうになり確実に情緒不安定となっていた。目指すべき兵庫県、我が子の幼稚園、妻の期待、親父との激励、そんなこんなのいろいろな野望やら期待やらを考えると居ても立ってもいられなくなる。だからと言って何かが出来るか!?、というと最早、何も出来ない状態。出来る事は全て実行していた。整えられるコトは全て整えた。松井さんを信じるしか無かったのだ。NOの結果は間違い無く周囲に対する信頼が失墜へと導かれてしまう。家庭教師という仕事、個人事業主というポジション、これらの先行きはもう完全に消え失せてしまう。たった3、4年でも自分が築き上げてきたモノがパッと消えてしまう。そればかりでなく、家庭教師という職業で人生を築く、という諸行も実現出来なくなってしまう。焦る気持ちを抑えながら無我夢中で手元の仕事に没頭しまくるしかなかった。

SMBCへ住宅ローンの仮審査申請を行ってから2週間程度が過ぎた頃、松井さんから1本の電話が入った。ハラハラドキドキしながら話を聞き入る。提出前に幾つか質問事項を確認したかっただけのようであったので一先ず安心。正直言ってあまり心臓には良く無かった。さらにその後、2週間程度が過ぎた頃、また松井さんから1本の電話が入った。今度は私の意識的な確認と事業現況や将来への進展性を改めて確認したかったようで、返済能力を見出すことが出来るか否か、を問われた。松井さんから連絡がある度に心臓がバクバクして仕方が無かった。当初より、都銀での仮審査はなかなか難しい、という話を聞いていたし悉くダメ光線を受けていたので、一本目ないしは二本目の電話でスグに断られるとタカを括っていたからだ。その雰囲気を察してもらえていたようで松井さんの言葉から、次の電話では恐らくハッキリした返事が出来る、という旨の報告を受けた。いよいよ覚悟を決める時がきたような気がした。そして、しばらく結論の事は考えないようにして仕事に打ち込んでいた時のことだった。とうとう松井さんから連絡があった。それは2回目の連絡から1ケ月程度過ぎていた時のように思う。着信表示を確認してハラハラしながらも、、、

「はい、和田です。お世話になります。松井さん!!」

「和田さん!!、良い知らせだよ。。。」

その第一声に感極まってしまい膝から崩れた。知らず知らずに自然と目からは涙が溢れて体が震えまくっていた。恐らく言葉が言葉になっていなかったに違いない。そこはさすがは松井さんでした。その時の状況を汲んで頂いたようで、また改めて連絡します、というコトで後日詳しい話をすることで留めた。あまり記憶に無い状態で、もう放心状態。灯火は消えることなく灯り続けることが出来たのだ。それも都銀で。それもSMBCで。みんなの予想を遥かに超えることが出来た。大きな、大きな、大きな漸進だ。冷えきっていた周囲に灯りを灯すべく、まずは旭化成の東さんに連絡。言葉を交わしている間に互いの心に漸進を感じた。1人で出来る事なんて、とってもチッポケだ。みんなが居なければ私は何にも出来ていなかった。それは明確だ。間違いない。松井さんには本当に感謝感激である。この御恩は、今後一生SMBCと付き合っていくコトで果たすべきと決意した。これで、ようやく土俵に上がることが出来たのだ。<つづく>

トツゲキ人生「修正」

東さん!!旭化成に決めたよッ、、、

もちろんだが他にも幾つか見回って吟味するのが妥当なのだろう。けれども、なるほどザ・ワールド、と昭和53年生まれ、モノコック構造、これらの要素が存在してあったので既に他を吟味する余地は無かった。住宅展示場に車を入れてわずか30分程度の出来事。決して失ってはいけないモノがあったからだ。それは、タイミングと時間そして人の信頼。今という時を大切にしているとリスクは必ずしも最小に抑えることが出来るし、そのうえ小さな効果を大きくさせられるチャンスも得られる。一石二鳥だ。インスピレーションが引き金となって少しずつ話が進んでいった。家を建てる場所は三田市の富士小学校の校区内。とは言っても建てる為に準備していた頭金なんて有る訳が無い。けれども、仕事は安定しつつあったので掻き集めれば何とかなる。誰が聞いても空っぽな自信だろう。そこで具体的な事をいろいろ話している内に1つの問題に打ち当たった。家の話を進めるにあたり最低でも100万円程度の準備金を揃えなければならないという事実。話の品質を高める為には止むを得ないことだろう。気が付けば親父から預かっていた部厚い封筒を目の前に出していた。無意識にもそのままハイッ。勝負をする気持ちで住宅展示場に臨んでいたのだから当然だろう。そこから空気は一新。話に深みを帯びていった。

早々に住宅ローンを組む話になって歯茎を噛み締めるような問題が浮上。それは私が個人事業主であるという社会的ポジションだからだ。個人事業主であるがゆえの諸事情を目には見えないところ、肌では感じれないところ、そういう様々な場面に存在していると実感した。不安になり過ぎて体が身震いしていたのは今でも鮮明。ローンの審査が通り難い、というのだから無理も無い。審査が通らなければ三田に住めない。そればかりでなく周囲の期待や子供達の成長に大きな問題を呈してしまう。住宅ローンの審査なんて簡単に通ると思っていた。甘かった。自分の甘さを誤摩化す為にも今の状況を精査。一般的な背景からして、都銀の審査は地方や信金よりも通り難い、という雰囲気が存在しているようだ。なので一先ず、都銀への審査申請を避けて地方銀行や信金への審査をお願いすることにした。練ったばかりの戦略で、いよいよ仮審査の申請に挑んだ。

審査中しばらく時間もあるというコトなので、申請後の結果に備えるべく打ち合わせで得ていた情報をモトに、私は私にしか出来ない事を徹底的に没頭することにした。それは車のローンの完済や税金未納の確認、修正申告に至るまでの対処だ。車のローンの完済は何とか有りっ丈のお札で片付けて税金未納が無いのも確認。財布の中身は殺風景であるコトを除いては、ここまでは良好。ただ難題に成り得そうになっていたのが修正申告。そんなのは1度もしたことがないからだ。満を持して全ての書類を持参して税務署へ赴く事を決意した。これが、どういう意味を表していたのかは、もちろん全て承知済みだった。もう漸進するしか道は残されていなかったので、気持ちを振り絞るしかない。もちろん、仮審査で結果オーライとなった訳でもない。結果が出てからでは遅いと感じていたし、自ずとヤルべきことならばヤルべきだ、と自負していたからだ。お金も無かったので日々、家から弁当持ちで税務署へ通った。その時の弁当は確かサランラップで巻いた梅干し入りのオニギリ2個だったように覚えている。この時ばかりはサラリーマンの気持ちが少し理解出来ていたように思う。唯一の休憩時間45分に税務署の駐車場脇で気分良くオニギリを食っていると当然のように変な目で見られてしまっていた。けれどもそんなコトはお構い無しだ。まぁ〜確かに変な目で見る気持ちも分かる。なぜなら間違いなく変だったからだ。税務署の休憩時間45分を除いては掛かり付けの担当者と睨めっこ。朝から夕方までの5、6時間程度も居座って勉強や相談に明け暮れて1週間程を費やした。大変、迷惑だったかもしれないが目からはビームが出ていたに違いない。もう本当に必死だったのだろう。大凡その介もあって3年分の申告を全て修正することが出来た。その後、見た事も無いぐらいの税金と並々成らぬ社会保険料の波が押し寄せてくることは覚悟が出来ていた。やらなければならないコトをやったので当然だし、これをやらないと前へは進めない。とうとう準備が整ったのだ。地位も名誉も金もない。手元に残されたのは時間とチャンスと猶予だけ。 タイムリミットは最早、切羽詰まった状態。とにかく仮審査でオッケーが出て欲しかった。何でも良いから成功して欲しかった。 <つづく>

トツゲキ人生「明暗」

さすがに三田に住むともなると家庭内での話の進み具合が怒濤の勢いを見せている。妻はよっぽど三田に住みたかったのだろう。まず一番の話の進み具合が我が家での教育環境の劇的な変化だった。三田での幼稚園や習い事、地域の交流というのを妻は妻なりに整えていた。その情景を客観的に見ちゃうと、もう既に後には引けない感が確実に漂っていた。そこで私は私なりに三田のドコに居場所を設置するかを考えた。せっかく移住するのだから何だか新鮮な場所が良い。ワガママを言うと静かなところでぇ〜学校に近くて住環境の整ったところでぇ〜妻の実家から近いところ。そんな都合の良いところが良かったのだが、なかなか事は上手い具合にはいかない。当時、住んでいたのは閑素なマンションだったコトもあって大っ広げに、家庭教師業をやってますよ!!、とはさすがに言い難い環境た。その為にも次に移り住む時は、家庭教師やってますよ!!、って堂々と言えるようなところが良い。とりあえず今で言うところのSOHO物件を探しまくり、練りに練って絞りに絞って歩き回ったが、なかなかそんな上手い具合のところが無い。住環境が整っていて大々的に事業やっても良いところを探すのは至難の業だ。さすがは大阪や神戸のベッドタウンだけのことはあるだけに、そんな都合の良い環境は備わっていないようだ。不動産屋さんに足蹴に通うもののなかなか良い物件が見当たらない。いろいろ一緒に立ち会ってくれていたのだが、富士が丘周辺や小学校周辺では、建築条件付きの分譲住宅ばかりで賃貸物件は薄い発言。そんな話を聞いていて自分には縁もゆかりも無い話と聞き流していた。けれどもその何気ない会話が実のところ起こり得そうもない1つの選択肢となった。人間と言うのは恐ろしいモノで危機的な状況になると不思議な事が思い付くものだ。

そうだ!!家を買ってみよぉ〜〜〜ッ、

もちろん、そんな簡単な事ではない。名案?、明暗?、そんな小粒なアイデアで単なる思い付きであるがゆえ、私のような人間を相手にする人なんて誰一人すらいなかった。加えて言うなれば金も無ければ時間も無い。さらに個人事業主で仕事をやっている社会的ポジションだ。大きな企業に就職している訳でも無いし、それ相応の信頼性だけしかなかった。だからと言って他に選択肢があるかと言うと既に考え付かなくなっていた。欲しいモノは欲しいのだ。後先無視した自分本意な考え方だ。B型まるだし。何とかならないのに、カツカツで何とかなると思っていた。虚しくも考えている内に自分の首が時間とタイミングにどんどん締められていくのを実感していた。既にリミットは1年を切っている。とりあえず「家を買う」というのを目標に動いてみるしかなかった。けれどもドコでどのような相談を誰にすれば良いのか!?、そんな当たり前の事すら分からなかった。そんな訳で、善は急げ、とばかりに姫路リバーシティーのヨコにある住宅展示場へ伺った。入り口早々、積水、ABC、ダイワ、等々といろいろいっぱいあった。そこで目に止まったのが、大きなゾウさん。ハッとした。子供の頃、なるほどザ・ワールド、という番組が好きで好きで仕方が無かったのを脳裏のシッカリと食い込んでいた。そんなヒョンとしたキッカケが「旭化成」というキーワードに引き付けた。そのまま展示場の中に足を踏み入れ、予想通りに圧倒されてしまった。自分達が来るようなところではない、と心身共に感じながら緊張感タップリのままでご挨拶させて頂いた。その時に担当して下さったのが旭化成ホームズの東さんだ。いろいろご案内下さっている内に、お互い昭和53年生まれ、というのを知った。何だか新鮮なご縁を感じながらも、いよいよ深くてスリリングなご相談が始まった。<つづく>

トツゲキ人生「地図」

家庭教師をどうしてもお願いしたいんです。でもエリア対象外のようなんですが、、、

、、、というお話。正に空前絶後のナイスタイミング。間髪入れず事情も聞かずに即OKで快諾。エリア対象外だろうと何だろうとお仕事の話であらば可能な限り飛んでいった。早速、翌々日に電撃で打ち合わせを設定。ホームページをたまたま見付けて、何だか他社とは違う、という印象を受けてご連絡下さった。実はこれが最初の神戸のお客様からのご連絡。テンションが上がって上がって仕方が無い。都会やぁ〜、都会やぁ〜、という田舎丸出しハイテンション。けれども気持ち的に不思議な気分だった。なぜならば場所が神戸だからだ。何でもカンでもあるはずなのに、どうして私のところなのか!?、という疑問が先に立っていた。もちろん当日は緊張感まる出し。アワワ、アワワとなりながらも打ち合わせを敢行。小一時間程度で打ち合わせを無事に終えて、幸いにしてご依頼を頂くコトが出来た。特に神戸に住まなくても良いモノを持っていれば問い合わせは必ず頂ける。ただ間に阻まれる障害は幾つかあるだろうが取り除く事は十分に出来る。良いモノはやっぱり良いモノなのだ。神戸だろうと姫路だろうと何だろうと、いかなる場所に居てもお客様のニーズは必ず存在するのだ。これをキッカケに考えが前向きに加速した。

これまで姫路、神戸というイメージでバイパス経由、バイパス界隈という感じを払拭するコトが出来ず仕舞いで移動手段を決め付けていた。移動には大きな費用が掛かる、と錯覚していたのだ。東西の移動だからこそ費用が嵩む。ならば南北の移動だったら嵩張らないはずだ。一番ネックだったのは阪神高速の1回800円のみだったからだ。そこを切り抜ければ良いだけの話。その為にも居場所を少し北よりに考える必要があった。とは言っても兵庫県の真ん中辺りともなると冬場の積雪に少し困ってしまう。改めて地図を開いて移動1時間を半径として100%陸地で面積が覆われるという条件を重ねて円を描いた。南北の移動によって神戸のお客様を確保出来たり、駐車場の代金や移動に関わる費用が安いところ。そして山陽道、中国道、北六甲、神戸電鉄、JRという移動手段を活かせて、電車だろうと車だろうと、交通の便が良いところ。加古川姫路福崎にも地道で1時間圏内、高速道路でも1時間圏内。神戸の中央区や東灘区も1時間圏内。大阪でも1時間圏内。雪は降るが移動不能になる程には至らない、そんな都合の良い場所。どこだ?、どこだ?、どこだ?、といつものように自問自答。徹底的に地図を落書きしまくって直線を引きまくって円を描きまくった。そして導き出した結論が兵庫県三田市だった。付け加えて言うと三田という地名。何だか分かり易いし書き易い。小学校1年生でも分かる漢字だし響きがシンプル。さらに言うと妻の出産や産後のコトを考えた場合でも一石二鳥。実家が極めて近いことから何かありそうだったら実家にも任せられる。そうなると自然と仕事にも集中するコトが出来る。甘い考えかもしれないが里帰り出産という大義名分が世の中には存在しているので、こうなったら甘んじても良いだろう。子はいつまで経っても鎹、なはずだ。早速、妻に話したところ嬉し過ぎて飛び跳ねていた。恐らくのところ、親元気楽、というヤツだろう。確かに気持ちは分かる。

よし!!決まった。三田に住もうぅ===ッ、、、<つづく>

トツゲキ人生「親父」

満を持した春先早々に先を見通せない勝負が始まった。まずは一番の大きな難関。親父の説得から幕が開いた。昭和20年生まれで激動の高度経済成長期をズバ抜けて生きてきた男。一筋縄ではいくはずもないのは間違いない。とにかく真っ直ぐな人間。されに加えて言うならば腕っ節の強い芸術家であるがゆえの「我」というエッセンスも注入されている。このような話をすること事態が親父の逆鱗に触れてしまうのは百も承知。互いにとことんピリピリしながら3日3晩、朝から晩まで話をし話を聞いてくれた。姫路から飛び立つ理由、10年後の自分、これまでの反省、今後の計画、その他様々なコトを話した。もちろんだが、烈火の如く激の入ったモノになっていたのは言うまでもない。怒る、というよりも、大丈夫か?!、というニュアンスに近かったからだろう。けれどもやはり、恐いモノは恐い。そして互いに話も尽きてきた3日目の夜、こんなに親父と話したコトはなかった、と我に返り少し嬉しい気にもなった。昔っから厳格な親父。何だよ!!、と思っていた衝動も若かれし多感な時期には付きモノ。そんな当時よりも少しは歩み寄ることができ、理解出来る程に成長していた。話もポツンポツンとなってきた時、私の目の前に少し部厚めの封筒が静かに置かれた。なんや!?、と思いながら手に取り中を見て言葉に詰まり、自然と涙がこぼれた。しばらくの間お互い言葉も無いまま、まぁ〜ガンバレよ!!、、、という親父からの静かな一言。姫路を飛び出しても良いぞ、というシグナルだったに違いない。もう二人に言葉はいらなかった。心の底から本当に心配してくれていたと考えが改まった。同時に自分自身の小ささにも目覚めた。その途端、無意識に感謝の言葉が口から初めて出た。お父ん、アリガトウな、、、胸が詰まり照れ臭くて、何とも恥ずかしい気持ちで仕方無かったが、いつもの親父はいつもの親父の表情に戻っていた。竹を一刀両断したような性格には、広く大きく周囲を見渡せる繊細で慎重な性格が存在している。親父が親父で本当に良かった。

親父との談に達成感を覚えて胸を張りつつ次なる進展に臨んだ。姫路を飛び出してもドコに所在を置くかなんて全く考えていなかったのだ。とにかく姫路を飛び出す、とにかく兵庫県を目指す、という思いだけしかなかった。無計画としか言いようがない。ドコで仕事をすれば一番良くて効率的なのか、を考える為にコンパスを手に取って地図と睨めっこ。やはり考えが進まないので、とりあえず姫路市役所を基準に車で半径1時間としてコンパスを回してみた。すると意外なコトに気が付いた。姫路という場所は、海の部分の占める割合が比較的多い。何だか不思議な違和感を感じた。海に住む人がいるなんて有り得ないからだ。本来ならコンパスの面積部分が陸地ばかりにならないといけないし、そうなるところで仕事をするのが理想。そうすると自ずと「神戸」という選択肢も消える。姫路よりも海岸より、というのが理由だ。神戸は、兵庫県の県庁所在地。選択肢から外すのはかなり勇気のいることだ。だからと言って自分の見出した妥当性に言い訳をしたくない。一先ず分析するべく反例を考えてみた。仮に神戸に所在地を置いたとしても意地費が今以上に掛かり過ぎてしまうのは一目瞭然。家賃、駐車場代金に加えて東西を動き回るうえでのバイパス代金も掛かり過ぎる。加えて言うならば渋滞多発により移動時間を必要以上に切迫させてしまう。神戸に所在を置いて仕事をするイメージが付き難い。うぅ〜ん、、、と決め切らなかった丁度そんな時、偶然にも一本の相談のご連絡があった。恐ろしいまでの偶然であった。 <つづく>

トツゲキ人生「決意」

既にタウンページも掲載されており、ホームページにもジワジワと攻めの姿勢を注入していた。そうこうしている内に肌寒くなってくるにつれて年々、忙しさも増していた。家庭教師を始めた当初から考えると1つ1つ進歩を遂げているのを多少、実感するコトが出来ていた。本当にこれは大変、有り難い話だ。そしてそんなある日の夜。たまたま仕事も早く終わって自宅のリビング?で何気無しに横になりながらテレビを見ていた。当時、あるある大辞典、という番組が放送されていたのだが、いつもなら見ないままシラーーーッと済ませていたのだが、その日は不思議と何となくジーーーッと見てしまっていた。それは前々から気になっていた「生命保険の話」という内容だったからだ。チャンネルを変えることもなく眺めていた。何だか分からないが、ある不安が脳裏に浮かんだ。

俺はこのままでええんやろか?、

年上女房だったのだが、金の草鞋を履かせる、という懐的な余裕も時間的な余裕もなく仕事、仕事、仕事に空回り必至で没頭しているだけの毎日。資金繰りに苦しい、と言える程のバロメーターで事業をやっているか、と言われるとマルでそうではない。小銭をチマチマと数えてその日暮らしをしているかのようだった。時間だけが無情にも過ぎていく。私の背中を押す訳でもなく肩をポンッと叩く訳でもない。何も言わないでただ過ぎていくだけだ。今の時間は今しかない。もっと将来的な事を考えるべきだし、もう本当に勝負に出るしかない。この番組がキッカケとなって時間の流れを肌で感じ、避ける事の出来ない事実に危機感を覚え、 自分にもしものコトがあったら家族はどうなってしまうのか、という思いが沸々と湧いてきた。とにかく無性に居ても立ってもいられなかったので次の日早速、いつもお世話になっている保険屋さんに連絡を入れた。今ではもう15年以上も付き合っていることになる。アレやコレやと良いコトを教えてくれるし、タイミングも図ってくれる。良き理解者だ。

そうなってくると将来に目を向けた考えは芋づる式にやってくる。愛娘の幼稚園のこと、家のこと、仕事のこと、生活をするうえでは必ず大切なモノ。仕事には関係無いし公私混同してはならない。しかし自営業であるがゆえ、仕事をするうえでは絶対的に切り離す事の出来ない状況ばかり。ましてや翌年4月には、愛娘が幼稚園に入学する、という事実が自然とやってくる。妻のお腹の中にも第二子が生きている。私は生まれも育ちも姫路だったので、近くの幼稚園で良いやん!!、という気持ちが普通に存在していた。けれども複雑な気持ちにもなっていた。愛娘が姫路の幼稚園に通ってしまうと小学校にも通ってしまう。もちろん高校に通ってしまう。そうなると私はもう姫路から飛び出せなくなってしまう可能性が大きく考えられる。加えて考えると、姫路で良いやん!!、という自分の心境の枠からすら抜け出せなくなってしまう。自分から抜け出せなくなってしまうのは絶対に嫌だ。自分の枠を抜け出すコトをやんないといけない、と毎日のように考えていたからだ。殺風景に生きていては何だ寂しいし、広い世界を見ないまま定着安定させてしまうのは刺激がない。でも姫路は大好きだ。好きで好きでたまらない。生まれた場所だし、高校時代のサバイバルを生き抜いた場所だし、海もあるし山もあるし、友達もいるし先輩もいる。みんな有るしみんな居る。増してや100年以上の歴史を持つ家系に生まれた長男の長男、という使命も存在する。けれども自分の人生だ。我が家のターニングポイントとなってみるのも我が家の家系らしいだろう。

よし!!決めた。絶対に兵庫県を目指してやる。<つづく>

トツゲキ人生「連動」

毎月1件ないしは2件程度のご連絡ないしは幾つかご紹介のご連絡も頂いていたので比較的、安定性を導きだすコトが出来ていた。それでもただ1つ、どうしても拭えない不安を抱えていた。それは、4月5月になるとお問い合せ件数が激減傾向にある、ということだ。歯止めを打って解決したかった。けれども、そこはまだまだ未熟な若僧。この問題を解決する術を見出す事は出来ずにいた。普段はジワジワと安定に向かって上昇するのだが、毎年4月5月となるとスコンッと抜けてしまう。万一、1月2月3月の3ケ月でご依頼を受けることが出来なかったことを考えるとゾーーーッとした。4月5月を境目に振り出しに戻ってしまう危機的状況が毎年起こるからだ。何とか出来ないものか、と考えたがそう易々と答えが出るはずもなく時間ばかりが過ぎていた。世の中の流れ的にそうなっているんだから・・・、というようなバカな言い訳は決してしたくない。 いろんなコトをあぁ〜だこぉ〜だと考えている内に落雷のようなアイデアが降臨しそうな気配も無い。原因を究明しようにも原因だらけで、ドコから手を付けて良いものか、と思案する状況。とにかく1つ1つ見直してみることにした。

タウンページの更新は年に1度っきり。1度決めると変更は容易に出来ない。だからコチラが賢くならないといけなかった。既に今では広告掲載内容は締め切られており後は、掲載時期を待つばかりとなっていた。考えるタイミング、発揮するタイミング、それぞれに独立していた。良いコトを考えても機会を失ってしまって効果は衰退してしがちだ。考え抜いた効果を今スグ発揮させたかった。そこで再びホームページに目を向けた。当時は、タウンページの効果が大きな力を発揮していたので、確実にタウンページ主導で動かざるを得なかった。ホームページの制作には時間を掛けて公開したものの集客は???状態のままで、上手い具合にホームページの効果を発揮させるコトは出来なかった。何とか制作してみても、これをみんなに知ってもらう為の術は無い。受験塾家庭教師を知ってもらう為にホームページを立ち上げたのに、ホームページを知ってもらう術がなかったのだ。

よしッ!!ホームページとタウンページを連動させてみよう、

タウンページを使って受験塾家庭教師の存在とホームページの存在を知って頂くことにした。既に今年度の掲載は完了していたので、この取り組みは1年後になるコトは覚悟していた。前回よりも今回、今回よりも次回、という動きでタウンページの掲載内容を良いモノに出来ていたように思うので中身の無い自信だけはあった。それに、時間と共に良い知恵が浮かんでいたし、せっかくホームページも立ち上げていたコトなので、より一層ブラッシングを掛けてみるのも良いだろう、と自分の中で完結していた。良いと思う事はとにかくホームページに書き込んだ。待ってろ!!来年の俺っ、という感じでコツコツとガツガツと書き込んだ。思った通りに書いては消して、消しては書いた。次第にホームページビルダーではなかなかスムーズに出来ない場面にも出くわしていたので、もう少し技術的に使い易いモノは無いか、と物色するようになった。そしてようやく見付けるコトが出来た1つのソフト。それは、ウェブデザインワークス、というものだ。パッケージを見るとホームページビルダーよりも自分のヤリたいコトが出来るような気がしたので、直感で購入。ホームページビルダーの時に設定作業で地獄を味わったのが功を奏して比較的、容易く設定を完了することが出来た。これまでホームページビルダーで使っていたファイルを使うことが出来る、という魅力に惹かれた節も合ったが自分自身の力の無さにお手上げ状態。その方法が見当たらなかったので、満を持して最初から新しく創ることにした。方法を探すよりも創る方が早い、と思ったからだ。大凡1年程度も制作に時間を要する状況が続くとは、当時の自分自身では知る由もなかった。<つづく>