高校を卒業後、大学へ進学する事となった。進学した大学の名前は、絶対に明かしたくない。そんなに大した大学でも無いからだ。と、言うよりも大学の名前がそこそこ格好良かったたと言う理由だけで入ったような大学でもあった。やはり、動機は、不純である。まぁ〜そんなモンだろう。和田成博という本質は、何にも変わっていない(笑)
家庭教師を始めたのは、大学入学後、スグだった。 とにかく、自宅からめちゃくちゃ遠い私立の大学に通う羽目になってしまったので、家族には、もうこれ以上、迷惑を掛けられない。だから、何としてでも自分で出来る限りの事をやりたかった。 当時は、大学にも入り立てで、お小遣い程度しか資金が無かった事もあり、一番、手っ取り早く資金を稼ぐ方法として、家庭教師を思いついた。これが、家庭教師という仕事の最初の出会いだ。
当時、教える能力や学力については、高校の時の自分の経験と人一倍の努力を行っていた事もあり、勉強が苦手で苦手で仕方ない子供達からどんどん勉強したくて仕方ない子供達までを対象に思う存分に勉強を教えてあげていた。そんな難しい事ではなかったように思う。そして、考えれば即行動に徹していた人間だったので、その後のスピードは、光の速さ程ではないにしても音速の領域には達していた。
大学求人、求人情報誌、街頭での求人広告、同級生との立ち話、ネット、DM、様々なキッカケを見付けては、片っ端から、家庭教師派遣会社に登録した。そして、登録派遣家庭教師として、各機関に自分を売り込んだ。確か、あれは、4から5社程度だったように思える。ただ、大学生としての本質を忘れる訳にはいかなかったので、週に2、3回程度で、平日は、1日1人。土曜日曜については、大学も無かったので、朝から晩まで必死で働きまくっていた。何事も自分の限界を通り過ぎるまで、一生懸命頑張ってしまう事もあり、1日5人ぐらいを担当した時には、帰宅するなり、バタン・キューだった。
そこで蓄えた報酬は、大学の往復交通費、食費、携帯電話代金に消えていった。当時は、やる気と若さがあっただけに、家庭教師先への移動手段は、中学時代から使っていた自転車!!電車やバスは、費用の掛かる交通期間は、使用しなかった。その為、それを見兼ねてか、どうかは不明なのだが、母親から中古のママチャリを譲り受けた。とにかく、ママチャリには、感心させられた。乗りやすいのだ。体重移動次第では、時速40kmぐらいは出せていたように思える。そんな状態で走っていて転ぶと即死間違い無しだった。それぐらい調子にのって走っていると新品タイヤを3ヶ月程度で、パンクさせてしまった事を今でも覚えている。とにかく愛用していたので、どこに行くにもママチャリで走破していた。
それから、しばらくして、どうしても自動車が必要である事に気が付いたので、免許取得に取り掛かった!!ちなみに4回目でやっと獲得出来た代物だ(笑)やはり、B型の土台に隅々まで浸透していた理系の頭脳が柔軟性を確実に排除していたようだ。ここにきて小中高と寄せ付けなかった国語の呪いが蔓延っていた。そんな感じで、順調(?)に免許を獲得して、大学生活の中でも家庭教師を半分生業状態として取り組む事となったのだ。
大学は、週に4日、家庭教師は週3日、休み0日。。。相変わらず高校からのスタイルが抜けない。朝は、早朝6時30分に起きて、即登校!!夕方は3限ないしは、4限を終えて、即下校。兵庫県に帰ってきて夜8時ぐらいから家庭教師に赴く。そして、夜11時ぐらいに帰宅してからは、数学、化学、研究に明け暮れて寝るのも忘れていた。
そして、そんな毎日をフル稼働しているときに衝撃の出来事が起きた。大学でも仲良くさせてもらっている教授から連絡があったのだ。
教授 「和田君!!良い話があるんだが、、、」
私 「え!?何ですか???私に出来る事なら何でもしますよ!!」
教授 「君にしか出来ない事なんだが、、、」
私 「無理な事を有理にする事ですか!?」
教授 「前々から話していただろう。海外の話だよ」
私 「え!?まさか。。。」
教授 「君に決まったよ!!NY行き」
私 「マジっすか(笑)」
突然、大学から白羽の矢が当たり、海外に2年間も行かなくてはいけない事になった。それも急に決まった。ただ、前々から話が出ていたのは、間違いない事実だった。それが、まさか私のようなブッブーな人間になるとは、思っても見なかった。正直、話は出ていたのだが、聞き流していた。これは、最大のチャンスでもあり、最大のピンチでもあった。何事も途中で放り出す事をしたくない性分だった事もあり、決断しなければいけない事が同時にやってきた。
1:大学や教授の先生方、そして、社会の期待に応えて約束された道を歩む。。。
2:現在、担当させえてもらっている家庭教師先の子供達と最後まで歩む。。。
私は、前者を選んだのだ。これ程までに悔しい感覚に追い込まれた事はなかった。何とも言えない境地を味わった。これが本当の覚悟というものなのか!?
「2年間の任期を終えたら、こんな事の無いようにちゃんとやらなアカン!!子供達は、無限大の可能性を秘めているんやから、大人や社会の都合で振り回したら絶対にアカンのや!!ちくしょう(怒)なんでなんやぁ〜(泣)」お風呂の中で、1人ブツブツと発しながらながら、自分に言い聞かせて、NY行きを決意した。
>>>そして、2年間の任期を終えて日本へ帰国>>>
その頃は、既に大学4回生の春だった事もあり、同級生連中は、就職活動の真っ最中だった。ただ、私は、将来、約束されていた立場にあったので、就職活動については、一切眼中になかった。ただ、周りは、必死。私は、余裕。。。誰もが羨むのだが、ただ、ただ、空しい。これで、良いのか!?当時は、日本で出来る事と海外で出来る事の差に理解出来ない部分がたくさんあった。時間を止める事が出来る能力がないと自分では、どうしようもない現実を目の当たりにしたのだ。
「このまま枠に絡まった社会で頭の良い人達の中で、毎日、毎日、同じような生き方をして、満足がいくのだろうか!?小さい頃の夢は、何だったんだろうか!?」3月4月の春休みのゆっくりした時期にとにかく様々な事を考えた。
「自分の夢とは、何だったのだろうか!?もちろん、会社の社長になるはずだった。それを実現しないままに終わってしまって良いのか!?研究者として生きていくのと、経営者として生きていくのとでは、どちらがどうなのだろう!?むしろ経営者というよりも、自分の夢を成し遂げる1人の人間として、生きていく事の方が、大切なんではないだろうか!?むしろ、オモシロいのではないだろうか!?」とにかく、考えて、考えて、考えて、考えてぬいた。鼻から頭の汁が滴り落ちるぐらい考えた。
1:研究者
2:夢を叶えようとする人間
「この2つや!!!そうや!!俺は、夢を叶えようとする人間として、そして、ゆくゆくは、経営者として、生きていったらええんや(笑)2年前の思いを活かす事で、邁進していけば良いんや!!!これからは、家庭教師として、子供達に勉強を教える事を通じて、諦めない精神、夢を追い続ける大切さ、覚悟を決める強さ、などなど様々な事を教えてあげれば良いんやぁ〜!!子供達の方向性にピシッと道を築き上げれる事が出来るはずや!!」もちろん後者を選んだ。お風呂の中で1人ブツブツと発しながら、約束された将来性をいとも簡単に蹴飛ばして、自分の夢を叶える為の道を歩み始める事になった。この時、本気で家庭教師として、生業っていく事を決心した。
一応、4年制の大学に進学したのだが、若干、事情も重なり、大学を卒業したのは、22歳の3月だった。普通の学生よりも1年程度先の卒業になったのだが、ぜんぜん後悔はしていない。特に平々凡々に過ごしていた訳ではないからだ。波瀾万丈に満ちていた(笑)この1年間で、仕事、会社、経済、社会、倫理、道徳、思いやり、等の「人」に接するテーマについて様々な事を学んだ。無論、大学生活で確保出来た5年間は、今の受験塾家庭教師の原型を作り上げる為のプロセスの1つとなったので、一切、無駄な事とは思っていない。ただ、これまで自分が大学で築き上げてこられた実績は、一切、関係無くなった。お蔵入りとは、この事だろう。初恋が終わったような良い思い出だ(笑)!!正に異色の業種ではあるのだが、それ以上に「人」と接していく事への喜びや「子供達の可能性」を担えるという使命感がオモシロくて、仕方が無い。これからも、どんどん、色んな事を考えて何事にも全力で臨んでいくつもりだ!!!
それからと卒業して、スグに結婚をした。信じられない事にこんな私にでも家族というものを持つ事になったのだ。今では、3児の子供を支えるパパと言う役割も担っている。この役割も満更、悪いものではないのだ(笑)彼らからは、多くの安らぎをもらう事が出来ているし、その安らぎをもらえるという確信も得ている。子供達では、あるのだが、やはりのところ感謝している。だから、親として、力いっぱい生きる事を教えてあげている!!
愛娘 「金曜日にダンス教室に通うから!!」
パパ 「そうか!!行くんか!?分かった。とことん楽しんでこい(笑)」
息子1号「よっしゃー☆僕の勝ちぃ〜!?」
パパ 「おまえ結構、うまいな(笑)ネット対戦で、高校生達と対戦してみろ!!絶対、オモロいぞ☆」
息子2号「おんぶぅ〜」
パパ 「それは、肩車やないかぁ〜!!ええわぁ〜とりあえず乗っとけ(笑)」
オモシロい事をいっぱいやって、健康に、かつ、逞しく育ってもらえて良かったと思っている。自分とは、まったく違う生き方なので、一先ずは、安心だ。愛娘は、何とか学校でも、上手い具合にやっているし、様々な事を母親と相談して決めているようだ。息子1号2号は、私に似ず、円満で、比較的、普通に育っているので、現状、周囲の方々に迷惑を掛けていないのが何よりだ。「勉強しない」と「勉強する」の狭間を全力疾走してきたパパからすると、子供達の今の状況には、一先ず、ホッとしている。これからも笑顔を絶やさない子供達になるように育ててやるつもりだ。