親父「おまえ!!将来、何になりたいんや?」
私 「えぇ〜!?会社の社長になりたい」
親父「なんでや?」
私 「楽して金持ちになれるもん」
知らず知らずのうちに小学校2年生の純粋な気持ちにエッセンスが注入されている。このような感じからすると将来の夢としては、会社の社長になる事のようだったみたいだ。もちろんのコトだが、覚えている訳がない。
母親の最後の夜に家族が集まっていた時に出てきたウダウダ話から出た話だ。親父いわく、私が発したその当時の理由は、お金持ちになると楽チンだから というものらしい。しかしながら、実際、大人になって考えてみると何て身の程知らずで、なんて子供らしい短絡的な考えなんだろう(笑)
現状をよくよく考えると一応、夢が叶いつつあると言えば、そうだろうが、まだまだ楽チンではないのが正直なところだ。まぁ〜でも、 スタッフの中で1番仕事をやっている人間であるコトが、ある意味、楽チンなのかもしれない。エネルギー底無しで働き続けているのは、周知の事実である。
睡眠時間以外は、頭の中でほぼ毎日仕事している。少なくとも1日あたり18時間ぐらいは、頭の中は、仕事の事でいっぱいだ。そうすると一週間を考え ると週126時間程度は、仕事に追い込まれている。でも、これが楽しくて、楽しくて、仕方ないのだ。このような感じで、まさか自分が家庭教師を天職として 今を過ごすとは、まったく思ってもみなかっただろう(笑))))
母親の最後をお花いっぱいで飾るコトも出来たし、そろそろ私の学生時代を少しだけ話してみるコトにしよう。親父の厳しさ(刺激)と母親の優しさが無ければ今の私は、120%存在していなかっただろう。
おバカちゃんだった時の小学生時代
生まれも育ちも兵庫県姫路市の的形という自然と海に囲まれた小さな町だ。春先には、潮干狩り、夏には、海水浴、秋には、祭りがある。冬といっても、 瀬戸内気候の助けもあり、そんなに雪が積もるような地域でもなく、時折、アイスバーンがチラホラ出来る程度だ。個人的には、大変、過ごしやすい地域だと 思っている。そんな地域でもあるので、ほとんどの子供達は、とにかく血色の良い健康優良児が大半なのだ。
そんな頃の自分の小学校時代から話を進めていくことにする。勉強もせず、習い事もせず、塾にも行かず、ひたすら毎日近所の友達と徹底的に遊んでいた。近くの山を駆け回り、川や海で釣りをしたり、貝拾いをしたり、町中を使って鬼おっこ等もやって楽しんだ。
そんな遊びまくっていた子供達が学校というところをどのように考えていたかと言うと、基本的には、給食を食べに行く場所で、なおかつ、放課後に何を して遊ぶのかをみんなで決める場所としてしか考えていなかった。そんな小学生だから、学校へ行く時には、度々、カバンを忘れて学校へ行くこともあり、もち ろん、学校へカバンを忘れた事もあった。ただ、さすがに学校の場所を忘れる事は、なかったのが、何よりの救いだ。
おちょくられたら、おちょくりかえす。ケンカをすれば泥だらけになり、ケンカに負ければ「勝ってこい!!」と言われて親父からゲンコツをもらった り、逆鱗に触れる事も多々あった。オモシロい事をする以外は、もう何にも知らない子供だったので、勉強というのは、勉強という漢字を書く事が出来なかった という事もあり、一切、しなかった。というよりも、しなくても大丈夫だと思っていたように思う。
今、考えると恐ろしい話だ。もう何と言って良のやら・・・(汗)そうなると、大変で、小学校6年生になっても九九が出来なかったし、3桁と2桁の足し算も出来なかった。もちろん、両親もその事実を知っていた。
母親は、習い事や学習塾というモノに通わそうしてみたが、全ての対応が未遂に終わっている。ただ、しかし、マクドナルドに連れて行ってやると言う餌 を与えれば、私が、ホイッホイッ着いて行く事を知ってか知らずか、何度もその手を使っては、体験的なモノに参加させたのだ。しかし、もちろんのことだが、 そう長くは続かなかった。子供心とは、そんなもんだろう。とにもかくにも何かにつけて、最初だけだったのだ。
そんな状態の中でも英会話という習い事だけには、行く羽目になっていた。しかし、両親共に働いており、仕事終わりが帰ってくるのは、8時過ぎぐらい だった。私が小学校から帰ってくるのは、4時過ぎで、習い事が開始されるのが6時で、終わるのが7時だった。もちろん時間帯のタイミングを考えると行く訳 もない。習い事に通っていた事すら、記憶から消滅していたのだ。
「あんた!!行ったんか!?(怒)」「え!?何がぁ〜???」と、知らばっくれて行くはずもなかった。心の中で過去のモノとして無意識の内に清算し ていたのだ。足し算や引き算が出来なかった人間がそのような事実関係を理解出来るはずがないのだ。母親の認識の上をいっていたと言えるだろう。
さて、親父は、というと一応、習い事に行かなかった事を怒ってはいなかったように思える。と言うよりも行ってもないのに「知らばっくれる」と言う事 が許されなかった。もちろんバレれば親父からフル・ボッコの目にあう。今、考えると仕付けだったのだろう。激しい仕付けだったのだが、数が多くなれば多く なる程、慢性化していく(汗)そんな訳で、未だに親父は、恐い存在でもある。ただ、この調子で、いつまでも元気でいてもらいたい。
そんな小学生ともなると学校でも様々なエピソードを抱えている。特に面白がってやっていたコトではないのだが、何もかもガチだった。
それは、ある日の家庭科の調理実習での出来事だった。その日は、「お味噌汁とご飯と卵焼きを作ろう」というテーマで、前々から献立や段取り、役割分 担を決めて取り組むプロジェクトだった。時を追う毎に授業中では、班が決まり、材料であるとか、様々な事が決められていった。そんなコトは他所に、私は、 適当にしか聞いていなかった。「誰かがやってくれるだろう」「出来たモノを食えば良いんだろう」ぐらいにしか考えていなかった。
幸いな事に「名前の順」というモノで席順が決まっていたので、私が座っていた場所には、俗に言う優等生が3人も存在していたのだ。言うなれば、6年 1組のクリーンナップ!!功を奏してか、何もしなくて良かった。ただ、さすがに何もしない訳にはいかないというコトなので、私は、お米を4号もってくると いう任務が与えられた。
皆さんもご存知のように、当時の私の頭の中では、毎日のようにサーカスが開催されている状態だ。そんな小学生に大変、重要な任務を任せた優等生達は、後で、度肝を抜かれる事態に陥る事になるとは、知る由もなかったのだ。
調理実習の前日夜に「お米4号を持っていく」を必死で覚えて母親に伝えた。
私 「家庭科の調理実習で、ご飯4号使うから、明日の朝、用意しといてな」
母親 「ご飯4号?お米ちゃうんか?」
私 「ご飯4号でええねん!!」
母親 「ええんか!?」
私 「ええねん☆」
ご聡明な方ならば、もう既にこの段階で、ご理解頂けただろう。悲惨な幕開けとなったのは、言うまでもない。
優等生「和田君!!お米4号持ってきた?」
私 「うん。持ってきたで。」
優等生「えらいやん(笑)忘れなかったんやなぁ〜!?」
私 「うん。はいコレ。」
優等生「・・・・和田君!?コレご飯やん・・・」
私 「え、だって、ご飯4号言うたやん!!」
優等生「お米4号やってぇ〜(汗)」
私 「一緒やん!!」
優等生「一緒ちゃうよぉ〜っ(痛)」
私 「え、だって、お米もご飯も一緒やん!!食べれるやん」
優等生「もぉ〜ええわぁ〜っ・・・」
完全に話にならないようだ。こうした状況が家庭科の調理実習だけでなく日々、学校の至る所で起きていたのだから仕方ない。信じられないかもしれない が、本当にあった話だ。当日は、同級生達がつくってくれたおかずと、我が家の炊きたてのホッカホカのご飯に舌鼓を打って事無きを得たコトが印象的だった。 同時に、同級生達は、何だかしんみりしていたのも覚えいている。「知らぬが仏」とは、正にこの事だろう。
それっきりと言うもの、私と班を組んで調理実習をしてくれるものは、誰もいなくなった。完全に、ハミ出し者になった訳だ。まぁ〜もちろん、そんな事は、おかまい無しだった。当時の私の頭の中では、「お米=ご飯」となっていたのは、間違いない。
今、考えると恥ずかしくて仕方がない。とにかく、もうどうしようもない小学生時代を過ごしていたのだ。ただ、遊ぶ事以外は、何も考える事が出来ないダメダメ少年期を力いっぱい過ごしていた事に悔いはない(笑)。
ダラしない象徴だった中学生時代
私は、比較的、小さい悪戯(いたずら)ばかりしていた小学校時代を経て、その延長として中学校時代も勉強もせず、毎日、毎日、徹底的に遊んでばかり いた。学校にも通ったり、通わなかったりしていたダラしない人間だったのは、言うまでもない。小学校の時代の小さい悪戯も通用せず、隣町の小学校との合併 により様々な同級生達と過ごすことになった。隣町といっても思春期ド真ん中の中学生にしては、刺激が強かった。
一応、クラブには所属したものの、あんまり馴染めず中学2年生の1学期には、既に辞めていた事を覚えている。辞める理由は、いたって簡単だった。単 純に勉強するからと言って辞めた。もちろん、そんなものは辞める為の口実だ。部活も面倒がる人間が勉強を面倒がらずに出来るはずがない。
それから、というもの学校へも行くのも面倒になった。そんな感じで、2年間程度通う事もせずに、フラフラしていたのだ。朝起きれば学校へ行くと言え ば、学校へも行かずにその辺りをフラフラしていた。移動手段は、自転車しかなかったので、遠くへ行っても姫路市街や高砂市街をフラフラするぐらいで一日が 過ぎていた。場所を見つけては、そこで時間を潰すという繰り返しだった。
ただ、それも6ヶ月程度が過ぎるとフラフラすることすら飽きてくる。暇になると本や新聞を読むようになった。ただ、飽き症だったのか、集中力が無 かったのかは、紙一重だろう。それもそんなに長続きしなかった。スポーツ新聞だけは、比較的、自分の心の中に入ってきたので、読んでいた。それは、単純に オモシロかったからだ。衝撃的な青春を目の当たりにするキッカケとなっていた。
そうこうしている内にそんな生活を2年間もしていれば高校への進学なんて、もう皆無な状態。働くか、進学するかの2択だけだった。しかし、進学する にしても諸事情により公立高校に進学するなんて壊滅的な衝動。公立高校がダメだから私立高校への進学になった。この段階で、高校へ進学することが出来る環 境があるのが、不思議なぐらいだった。
そんなダラしない人間でも高校受験というものを経なければいけなかったのだが、家庭の金銭的な事情もあり、高校へ進学する事は、半ば諦めていた。中 学卒業も3ヶ月ぐらい前になってくると同級生達は、高校の話に花が咲いていた。もちろん、その和の中には、入る事も出来ず、ダラダラしていた。そんなある 晩ご飯時に、珍しくも父親から話しかけてきたのだ。。。
父親「おまえ!!求人広告なんか見とって、高校に進学する気ないんか?」
自分「ないよ。中学でたら働くねん。一生懸命に働いて会社の社長になるねん。」
父親「そうか!?それでもええけど。受けるチャンスがあるんやから受けてみたらええやないか。結果やなくて、チャンスを活かして結果を導き出せない者は、会社の社長には、なられへんぞ。」
自分「そうやなぁ〜!!ほんなら、受けてみるだけ受けてみるわ」
この段階でまさか自分が合格するとは、知る由もなかった。正に無謀な挑戦であるのは、周知の事実。そんな感じだったので、学習塾や家庭教師にお願い する気も、一切しない。ただ、持て余した時間を何となく過ごしていた。試験勉強というモノは、ほとんどしていなかった。ただ1つだけやっていた事がある。 それは、過去問だ。
確か、親父がこれぐらいは、やっとけというものなので、とりあえず開きはしたぐらいで、やはり、何にもしていなかった。つまり、真っ白け!!当日が やってきた。完全に北国である。自分の住んでいるところとは、まったく違う環境。一言で、言うと寒いところ。何にもない。雪がふっていた事を覚えている。 ブツブツ文句を言いながら試験が始まり、疾風の如く、試験が終了して、早々に帰路についたのだ。
やれやれと思いながらいつものように今まで変わらぬ日々を過ごしていた。そんなある日。。。再三、学校からの電話があったので、普段から電話線を抜 いておいた。ただ、この時ばかりは、さすがに違っていた。人間というものは、おかしいもので、普段とは違った環境に赴けば、それ相応の期待をするようだ。 一先ず、合格発表の日だけは、電話線を入れておいた。その日のお昼過ぎぐらいに学校の先生から電話があった。
プルルル、、、プルルル、、、
私 「はい」
先生 「和田か」
私 「そうやで」
先生 「話したい事があるから学校へこい」
私 「え!?なんで???」
先生 「ええから、こい」
私 「わかった」
もちろん、行く訳がない。それを理解してなのか、どうなのかは不明だが、わざわざ学校の先生が自宅にやって来た。
先生 「こんにちわ」
私 「はい」
先生 「高校受験の結果が出たぞ」
私 「あぁ〜そうなん!?で、何しに来たん???」
先生 「おまえに結果を伝えに来たんや」
私 「あ、そうなん!?」
先生 「気にならんのか???」
私 「よう分からんねん」
先生 「おまえ合格や」
私 「よかったやんって、うそん」
先生 「ほんまや」
私 「そうかぁ〜、、、合格かぁ〜、、、」
先生 「卒業式の練習あるんやからちゃんと学校こいよ」
私 「わかった」
これで、ただ何となく高校合格を手に入れた。しかし、「学校へこい」と言われて、行く訳もなく、そのまま卒業式当日を迎えて、オモシロくない中学生 活に幕を下ろしたのだった。一生に一度、あるかないかのダラしない良い経験が出来た(笑)これで、晴れて高校に入学しなければいけないようだ!!とりあえ ず入学してみる事にする。
前人未到の努力で這い上がった高校生時代
小学校、中学校の頃に遊んでばかりいて勉強もしなかった反動からか、高校合格をキッカケに勉強をしようと思う気持ちに少しだけではあるものの小さな 灯火として心に宿った。この灯火が大きな爆発に変わるまでにそんなに時間が掛からなかった。キッカケは、至ってシンプルなものだ。「学年で1番になったら 授業料が免除される。」という事実を耳にし、奇跡的に高校へ合格したというのも足掛かりとなり、周囲からバカにされるような眼差しも加わり、それらの細か な要素の固まりが、私の背中を押してくれたのだ。今、思うとやはり動機は、不純である。動機がどうであれ結果的には、これで良かった。それからと言うも の、高校生活は著しく困難を極めていた事を今でも走馬灯のように思い出す。当時は、まだ、高校生であった事もあり、私の考えにも然程、甘さがあったように 思うが、その点では、大らかに見てもらいたい。勉強の「べ」の字も知らなかった人間が、我武者らに動き回ったのだ。
まず、最初に行ったのは、タイムスケジュールの管理だ。自分が勉強するには、どのくらいの時間が必要なのかを出来る限り考えた。高校3年間という限られた時間の中で目標達成を成し遂げないといけなかったからだ。さすがに焦っていたように思える。
山陽電車の早朝5時48分姫路発に乗車し、次にJRの早朝6時20分発に乗車することで、最寄りの駅に到着する。そして、そこから、徒歩20分程度 の所要時間を経て、7時5分過ぎに学校へ到着出来る。そして、朝8時30分に朝礼が始まる。そこから、学校の授業が始まり、終礼までが、夕方4時。そこか ら放課後が始まり、学校の門を閉めるまでが夜7時。下校時の電車乗車が8時30分。帰宅すると9時30分。それから風呂に入って晩飯を食い終わるのが、夜 10時30分。そして、深夜1時30分に長い1日が終わる。
そう考えると早朝5時30分起床する事を考えると8時30分までに自学習で確保する事の出来る時間は3時間!!人のやらない事をやんないと絶対にマ イナスからの脱却は、成し遂げる事は出来ない。朝飯を食う時は、単語を見て覚える。歩いている時は、覚えないといけない単語をブツブツ言いながら自分の耳 で聴いて覚える。電車に乗っている時、当初、書き物は、出来なかった。ただ、「出来ない」という言葉で自分の決意に水を差すのは、言語道断!!何度も何度 も訓練を積みながらも電車の揺れに身を任せる事で、 電車の中で書き物をする事が出来るようになった。このスキルは、登下校時にかなり役立った(笑)今だから言えるのだが、学校の課題という課題は、ほとんど 電車の中で乗り切った。
それから、学校での生活を考えてみた。あの10分休みや昼休みだ!!正直、言っていらんやろう(笑)この時間を計算してみた。1日で、90分も確保 するコトが出来る。それから、放課後の時間を考えてみることにした。部活動をやっている同級生達がオリンピックに出たり、全国大会に出場したりしていた高 校だったので、時間の使い方については、大変、役に立った。彼等が部活動で時間を費やしている間を勉強に充てる事で成し遂げる事の出来る力があるのだ。こ の考え方は、かなり効果があった。放課後というスパンは、夕方4時から夜7時までだ。7時になる守衛さんが鍵を閉めにくる。今、落ち着いて考えると勉強の 出来ない子供達の為に、もっと学校を解放しても良いのではないか!?もっと人生が変わっていただろう。これで確保出来た時間は、3時間。かなりHOTだっ たように思う。
そこまで長い時間学校にいると下校という考え方に少し問題が発生する。郊外にある高校というのは、1時間に1本ぐらいしか、電車がないのだ。夜7時 に校門を出ても8時30分までは、1本たりとも電車がなかったのだ。ただ、これをチャンスに返る方法がある。その間も駅で勉強すれば良いのだ。そうする事 で、1時間30分も勉強が出来る。もちろん、その後の電車の中での時間も無駄には、しない。さらに1時間確保!!夜9時30分に帰宅後、30分ぐらいの間 で、早飯、早風呂。無論、ゆっくりするはずがない。後は、勉強して、寝るだけだ。ここで、大変、吟味したのが、何時に寝れば一番、良いのかだ。それは、例 え10分程度の睡眠時間でも確保するのも大切だからだ。集中力、体力、精神力を保つ事の出来る丁度良い部分で対処しなければいけない。「たった10分では なく、されど10分」という具合だ。何日も掛かって見出したのが深夜1時30分というものだ。見出した時は、本当に画期的だった。これで帰宅後、3時間 30分の時間を確保する事が出来た。今までの内容を一様に考えてみると朝起きて、寝るまでに確保出来る自学習の時間は、合計で、13時間30分ある事が判 明した。もちろんだが、学校の授業時間は、含まれない。自分が一生懸命、勉強する事の出来る時間だ。もちろんだが、これを3カ年やり通しました。ただ、途 中で、原因不明の熱(知恵熱!?)にやられる時や、体力低下で意識を失い掛けた時が数日間程度あったりしたのだが、何とかやり遂げました。その介は、今、 正に実感しています。まさに体が砕けてしまいそうになる生活を毎日、毎日、過ごしていた。
次に勉強するスタイルを明確にする必要があった。要するに、限られた時間で、どんな内容、どんな手段で取り組むかを考えたわけだ。好きな教科(科 目)は、苦手な教科よりも比較的、点数が良いので、あんまり目を向けずに勉強する事にした。どちらかという「嫌いやなぁ〜」「面倒やんぁ〜」と思う教科を 主に時間を割いたのだ。今も当時も和田という人間性にほぼ変化はない。生粋のB型を貫き通してはいたのだが、冷静さも兼ね備えていただ為、何事もバランス が重要であると慎重だった。
やはり、偏りを補正すれば、次第に相乗効果が目に見えて発揮されつつあったのだ。無意識のうちに意識していない部分が飛び抜ける!!恐らく、勉強を する醍醐味は、こんな感じだろう。ここで、分かりやすく学内順位をテーマに説明しよう!?私は、高校在学中、学年1番を何度も経験したコトがある。死ぬ気 で、勉強を初めてから半年が過ぎようとしていた時だっただろうか!?確か、あれは、2学期の中間考査が一発目だったように思う。それからと言うもの、 500人中だろうと40人中だろうと何でもあり状態だった。少なくとも二桁回数以上は、学内順位で1番を確保している。意識せずに1番を獲得していたとい うことだ。何も考えないで、ただ勝手になっていた。1番を確保するには、1番を確保したものでしか、経験しない感性があり、そこには、偶然性と必然性が存 在する事に気が付くようになった。そこのところの見極めが難しいのだが、見極めた瞬間、1番になろうとして1番になるコトが出来た。また、2番になろうと してもなるコトが出来た。恐ろしい話だが、順位なんてものは、コントロールするコトが出来ていたのだ。「ここは、泳がせといて、ここで、攻める!!」そん な感じで定期考査や実力考査では、おもしろ半分に楽しんでいた。とにかく毎回の試験がオモシロくて仕方なかった。なぜなら、自分の思うようにいくからだ (笑)そして、勝手に周囲があぁ〜だこぉ〜だとテンション上げ上げ状態になっていた。自分に課したやらなければいけないコトをやっていたからこそ、成し遂 げることが出来たはずだ。とは、言うものの私にとっては、学内順位なんて、どうでも良かった。そんな事よりも睡眠時間を1時間でも多く確保したい気持ちが 常にあったのだ。出来る事なら誰かから睡眠時間を分けてもらいたかった。
勉強をする限界についても少なからず考えた。「なぜ、学校の先生方は、勉強をする限界を教えてくれなかったのか!?なぜ、出口を教えてくれないの か!?なぜ、向こう岸を教えてくれないのか!?」当時は、そんな疑問を常々もっていた。それぐらい、毎日がキツかったのだろう。当時の私にとって半永久的 に、かつ、出口の見えない状況で勉強をする程、大変な事はなかったのだ(今では、学校の先生方がその限界を教えてくれない理由を誰よりも理解出来てい る。)。それぐらい大変だったので、限界を考える事すら受験が終わるまで忘れてしまっていたのだが、最終的には、自分が気が済むまで勉強する事が勉強をす る限界であることに一先ずの結論をだしたのだ。要するに、いつもの悪い癖が突出して、考えてて、途中で、どうでも良くなった訳だ。はぁ〜(汗)なんて、え えかげんなんでしょうか!?自分で、自分の事が情けなくなってしまう瞬間でもあります。
最後に勉強するべき材料を手に入れる必要がありました。その為に、姫路のみゆき通りにある書店に何度も何度も足蹴に通った。文具用品は、ホームセン ター(通称、ホムセ)を専ら利用していた。60ページ・ノート10冊で390円は安いでしょう。お昼ご飯代としてもらっていた昼食代で節約したお駄賃や毎 月貰っていたお小遣いから少しずつ捻出して、教材代金等に当てていた。高校の頃の勉学というと教科書と書店で売っている高校生のお小遣いでも買えるような 安い市販問題集を片手に必死で、ほぼ勉強に励んでいた。そうなると必ず引き起こる問題がある。それは、市販の問題集にありがちな回答解説ミスだ。これは、 とにかく腹が立つ!!問題をやってて答え合わせをしたとすると、安易な感じで間違っている。しかし、解説では、正解しているのに、答えが間違っている。悔 しいので、何度も何度も、解きなおす。それでも間違っている。今度は、解説をベースに解き直す。そうすると、最終的に解説をつくった者が計算ミスをしてい るのを発見!?そんなのが2度、3度、繰り返されるとせっかく買った問題集でも即ゴミバッコ!!もう頼むから止めて欲しい。お金も時間も無駄にする。それ に気持ちも凹む(泣)また、お小遣いに余裕のない時などは、あまりしてはいけない事なのだが、立ち読みにより、難しい問題や定理等を頭の中に叩き込んでい た。特に証明問題等は、一目瞭然状態となっていた。数式が全て、私に何かを訴えかけている言葉に見えるぐらいまで立ち読みしていた。正直、そこまでしてい る自分が信じられなかったのだが、当時は、もう必死で、必死で、仕方なかったのだ。完全に周りが見えていなかった。そんなに裕福な家庭ではなかったので、 やむ負えないのだ。それに私立の高校へ通っていた事もあり、一応、家庭の経済状況を気にするようにもなっていた。人間というものは、こうも変わるものなの かと、自分の行動から自分自身に驚いていた。とにかく勉強をするには、お金も比較的大切だけれど、何よりも、キッカケと時間、そして、情報が大切である事 を実感するようになっていた。高校3年間の広げられる可能性は、無限大だ。だから、時間を節約する事や費用を抑えるをとことん学びながら一心不乱に勉強に 励んだ。
時間を節約するには、至って簡単だ。その方法としては、「頭をお利口ちゃんにすれば良い」「ノートは、基本的に大きなメモ帳と考える」「飯、風呂、 寝る、以外は、全て勉強に費やす。」それに、費用を節約する事も簡単だ。身近な情報をとにかく頭の中に叩き込む。そして、学校の先生を活用しまくる。ただ し、私の場合、私の解きこなす問題を解ける先生がいなかったので、その点では、大変、残念な思いをした。そう考えると進学校と言われる私立の中高一貫へ通 われる方々や公立でも進学校と言われる学校を目指す方々の気持ちが少しは、分かる。自分のやっている事が周囲に対応出来ないのは、減なりするからだ。その 時点で、「俺の青春を返せぇ〜!!」っと言いたくなってしまう。ちなみに私の場合は、2、3人の先生を学校から放り出したのだが。。。仕方ない話だ。学校 の先生も毎日、毎日、勉強し、自分のスキルアップを行えば、事無きを得るし、大人として、当たり前の事だろう。先生、先生、と言われて自分の身の程を見 失ってはいけないのだ。
このようにして、高校という3年間は、勉強に対して、比較的、前向きに取り組んでいた。その介もあり、高校3年生の3学期ともなると勉強時間が睡眠 時間になりつつあった。恐らくそれだけ余裕が出てきたのだろう。余裕と油断の意味を履き違いしてはいけない。あくまでも余裕なのだ!!「頭の良い同級生さ ん達よ!!頼むからこの状況に気が付かないでくれ(汗)」と思うようにもなっていた事は、鮮明に覚えている。気が付かれれば、世の中にいる優等生達に叶う 訳が無いからだ。彼等は、本来持っている頭の良さをベースに対策案を練ってくる。それでは、私の歩んできた3年間がブッブーになってしまう。だから、最後 の最後まで、同級生達の目に触れないような通学方法や学校生活を考えてきたのだ。一事は万事!!正にそうだ。ちなみに、この意味は、あまりよく分からない のだが、、、(笑)こんな毎日を特に誰からも評価してくれないままで良い。もちろん自己満足で十分!!誰からも警戒されない事で、日々、充実した毎日を過 ごす事が出来た。そこに値打ちがある。形の無い自分だけの価値がある。それに小学校中学校時代のおバカちゃんの時よりは、だいぶん視野が広がった。ここま で出来たのも両親がいてくれたからだ。私1人の力では、不可能だったのは、間違いない。支えとキッカケを与えてくれたからこそ、成し遂げる事が出来た。口 には、出さないが、心の中で、大声で叫んでいる。大学受験も散々な結果となっては、いたものの充実感はあった。それに良い機会に「後悔」というものもして みた。それは、「国語」をほとんど勉強していなかった事により進みたかった道から少し外れてしまったからだ。 大学入試センター試験の結果では、780/900点満点中であった。合計でみると普通!!メリハリも何にもない。地味だ。よくよく見ると思った通り、国語 は、ブッブー状態であった。しかし、一般的によく言われる「国語の出来ない者は、英語は出来ない」という意味の分からないジレンマが有り得ないという事を 立証出来たのは、オモシロかった。そんな固定観念は、関係ない。何事も努力次第で出来るという事を理解出来た。それを理解出来ていて「国語」を勉強せずに 志望大学からそっぽを向かれたのだから、世話が無い(笑)まぁ=それも人生だろう!!ただ、どこの大学へ進んでも自分の頑張り次第で、何でも動かす事が出 来る自信があったので、あんまり、どうとかは、思っていない。大学が何かをしてくれるのではないからだ。それは、高校3年生の頃からまったく変わっていな い考えだ。大学は、キッカケと様々な情報が保存されている場で、それを活用するのは、自分だ。活用出来ない者は、東大へ進もうが京大へ進もうが、どこへ進 んでも同じこと。ただ、大学ブランドで人生を歩もうとする人間として、細くて魅力を感じさせない人生が待っている。それでは、ぜんぜんオモシロくない。 もっと人間は、グローバルなはずである。私は、志望大学への合格よりも大切なものを高校で学ぶ事が出来た事に一先ず、満足している。後は、どこの大学でも 良かったので、名前の響きが良いという理由だけで、大学へ進学した。
<大学入試センター試験の結果>
数学12AB 200点/200点
英語12 196点/200点
国語12 92点/200点
政治経済 96点/100点
化学 100点/100点
生物 96点/100点
親父「高校どうやった?」
私 「いって良かったわ。」
親父「ほんまか(笑)大学いってもガンバレよ」
私 「うん。せやけど。。。お父ん!!家、大丈夫?」
親父「 そんなしょうもない事気にせんでええわい!! おまえは、おまえにしか出来へん事をやってこい。おまえには、出来へん事をワシやお母んは、やっとるんやから。おまえは、おまえの生きる道を突っ走らんかい」
私 「わかった。絶対、やったるわ!!頭ええ奴らには、絶対に負けへん(泣)」
大チャンスと大ピンチを乗り越えた大学生時代
高校を卒業後、大学へ進学する事となった。進学した大学の名前は、絶対に明かしたくない。そんなに大した大学でも無いからだ。と、言うよりも大学の 名前がそこそこ格好良かったたと言う理由だけで入ったような大学でもあった。やはり、動機は、不純である。まぁ〜そんなモンだろう。和田成博という本質 は、何にも変わっていない(笑)
家庭教師を始めたのは、大学入学後、スグだった。 とにかく、自宅からめちゃくちゃ遠い私立の大学に通う羽目になってしまったので、家族には、もうこれ以上、迷惑を掛けられない。だから、何としてでも自分 で出来る限りの事をやりたかった。 当時は、大学にも入り立てで、お小遣い程度しか資金が無かった事もあり、一番、手っ取り早く資金を稼ぐ方法として、家庭教師を思いついた。これが、家庭教 師という仕事の最初の出会いだ。
当時、教える能力や学力については、高校の時の自分の経験と人一倍の努力を行っていた事もあり、勉強が苦手で苦手で仕方ない子供達からどんどん勉強 したくて仕方ない子供達までを対象に思う存分に勉強を教えてあげていた。そんな難しい事ではなかったように思う。そして、考えれば即行動に徹していた人間 だったので、その後のスピードは、光の速さ程ではないにしても音速の領域には達していた。
大学求人、求人情報誌、街頭での求人広告、同級生との立ち話、ネット、DM、様々なキッカケを見付けては、片っ端から、家庭教師派遣会社に登録し た。そして、登録派遣家庭教師として、各機関に自分を売り込んだ。確か、あれは、4から5社程度だったように思える。ただ、大学生としての本質を忘れる訳 にはいかなかったので、週に2、3回程度で、平日は、1日1人。土曜日曜については、大学も無かったので、朝から晩まで必死で働きまくっていた。何事も自 分の限界を通り過ぎるまで、一生懸命頑張ってしまう事もあり、1日5人ぐらいを担当した時には、帰宅するなり、バタン・キューだった。
そこで蓄えた報酬は、大学の往復交通費、食費、携帯電話代金に消えていった。当時は、やる気と若さがあっただけに、家庭教師先への移動手段は、中学 時代から使っていた自転車!!電車やバスは、費用の掛かる交通期間は、使用しなかった。その為、それを見兼ねてか、どうかは不明なのだが、母親から中古の ママチャリを譲り受けた。とにかく、ママチャリには、感心させられた。乗りやすいのだ。体重移動次第では、時速40kmぐらいは出せていたように思える。 そんな状態で走っていて転ぶと即死間違い無しだった。それぐらい調子にのって走っていると新品タイヤを3ヶ月程度で、パンクさせてしまった事を今でも覚え ている。とにかく愛用していたので、どこに行くにもママチャリで走破していた。
それから、しばらくして、どうしても自動車が必要である事に気が付いたので、免許取得に取り掛かった!!ちなみに4回目でやっと獲得出来た代物だ (笑)やはり、B型の土台に隅々まで浸透していた理系の頭脳が柔軟性を確実に排除していたようだ。ここにきて小中高と寄せ付けなかった国語の呪いが蔓延っ ていた。そんな感じで、順調(?)に免許を獲得して、大学生活の中でも家庭教師を半分生業状態として取り組む事となったのだ。
大学は、週に4日、家庭教師は週3日、休み0日。。。相変わらず高校からのスタイルが抜けない。朝は、早朝6時30分に起きて、即登校!!夕方は3 限ないしは、4限を終えて、即下校。兵庫県に帰ってきて夜8時ぐらいから家庭教師に赴く。そして、夜11時ぐらいに帰宅してからは、数学、化学、研究に明 け暮れて寝るのも忘れていた。
そして、そんな毎日をフル稼働しているときに衝撃の出来事が起きた。大学でも仲良くさせてもらっている教授から連絡があったのだ。
教授 「和田君!!良い話があるんだが、、、」
私 「え!?何ですか???私に出来る事なら何でもしますよ!!」
教授 「君にしか出来ない事なんだが、、、」
私 「無理な事を有理にする事ですか!?」
教授 「前々から話していただろう。海外の話だよ」
私 「え!?まさか。。。」
教授 「君に決まったよ!!NY行き」
私 「マジっすか(笑)」
突然、大学から白羽の矢が当たり、海外に2年間も行かなくてはいけない事になった。それも急に決まった。ただ、前々から話が出ていたのは、間違いな い事実だった。それが、まさか私のようなブッブーな人間になるとは、思っても見なかった。正直、話は出ていたのだが、聞き流していた。これは、最大のチャ ンスでもあり、最大のピンチでもあった。何事も途中で放り出す事をしたくない性分だった事もあり、決断しなければいけない事が同時にやってきた。
1:大学や教授の先生方、そして、社会の期待に応えて約束された道を歩む。。。
2:現在、担当させえてもらっている家庭教師先の子供達と最後まで歩む。。。
私は、前者を選んだのだ。これ程までに悔しい感覚に追い込まれた事はなかった。何とも言えない境地を味わった。これが本当の覚悟というものなのか!?
「2年間の任期を終えたら、こんな事の無いようにちゃんとやらなアカン!!子供達は、無限大の可能性を秘めているんやから、大人や社会の都合で振り 回したら絶対にアカンのや!!ちくしょう(怒)なんでなんやぁ〜(泣)」お風呂の中で、1人ブツブツと発しながらながら、自分に言い聞かせて、NY行きを 決意した。
>>>そして、2年間の任期を終えて日本へ帰国>>>
その頃は、既に大学4回生の春だった事もあり、同級生連中は、就職活動の真っ最中だった。ただ、私は、将来、約束されていた立場にあったので、就職 活動については、一切眼中になかった。ただ、周りは、必死。私は、余裕。。。誰もが羨むのだが、ただ、ただ、空しい。これで、良いのか!?当時は、日本で 出来る事と海外で出来る事の差に理解出来ない部分がたくさんあった。時間を止める事が出来る能力がないと自分では、どうしようもない現実を目の当たりにし たのだ。
「このまま枠に絡まった社会で頭の良い人達の中で、毎日、毎日、同じような生き方をして、満足がいくのだろうか!?小さい頃の夢は、何だったんだろうか!?」3月4月の春休みのゆっくりした時期にとにかく様々な事を考えた。
「自分の夢とは、何だったのだろうか!?もちろん、会社の社長になるはずだった。それを実現しないままに終わってしまって良いのか!?研究者として 生きていくのと、経営者として生きていくのとでは、どちらがどうなのだろう!?むしろ経営者というよりも、自分の夢を成し遂げる1人の人間として、生きて いく事の方が、大切なんではないだろうか!?むしろ、オモシロいのではないだろうか!?」とにかく、考えて、考えて、考えて、考えてぬいた。鼻から頭の汁 が滴り落ちるぐらい考えた。
1:研究者
2:夢を叶えようとする人間
「この2つや!!!そうや!!俺は、夢を叶えようとする人間として、そして、ゆくゆくは、経営者として、生きていったらええんや(笑)2年前の思い を活かす事で、邁進していけば良いんや!!!これからは、家庭教師として、子供達に勉強を教える事を通じて、諦めない精神、夢を追い続ける大切さ、覚悟を 決める強さ、などなど様々な事を教えてあげれば良いんやぁ〜!!子供達の方向性にピシッと道を築き上げれる事が出来るはずや!!」もちろん後者を選んだ。 お風呂の中で1人ブツブツと発しながら、約束された将来性をいとも簡単に蹴飛ばして、自分の夢を叶える為の道を歩み始める事になった。この時、本気で家庭 教師として、生業っていく事を決心した。
一応、4年制の大学に進学したのだが、若干、事情も重なり、大学を卒業したのは、22歳の3月だった。普通の学生よりも1年程度先の卒業になったの だが、ぜんぜん後悔はしていない。特に平々凡々に過ごしていた訳ではないからだ。波瀾万丈に満ちていた(笑)この1年間で、仕事、会社、経済、社会、倫 理、道徳、思いやり、等の「人」に接するテーマについて様々な事を学んだ。無論、大学生活で確保出来た5年間は、今の受験塾家庭教師の原型を作り上げる為 のプロセスの1つとなったので、一切、無駄な事とは思っていない。ただ、これまで自分が大学で築き上げてこられた実績は、一切、関係無くなった。お蔵入り とは、この事だろう。初恋が終わったような良い思い出だ(笑)!!正に異色の業種ではあるのだが、それ以上に「人」と接していく事への喜びや「子供達の可 能性」を担えるという使命感がオモシロくて、仕方が無い。これからも、どんどん、色んな事を考えて何事にも全力で臨んでいくつもりだ!!!
それからと卒業して、スグに結婚をした。信じられない事にこんな私にでも家族というものを持つ事になったのだ。今では、3児の子供を支えるパパと言 う役割も担っている。この役割も満更、悪いものではないのだ(笑)彼らからは、多くの安らぎをもらう事が出来ているし、その安らぎをもらえるという確信も 得ている。子供達では、あるのだが、やはりのところ感謝している。だから、親として、力いっぱい生きる事を教えてあげている!!
愛娘 「金曜日にダンス教室に通うから!!」
パパ 「そうか!!行くんか!?分かった。とことん楽しんでこい(笑)」
息子1号「よっしゃー☆僕の勝ちぃ〜!?」
パパ 「おまえ結構、うまいな(笑)ネット対戦で、高校生達と対戦してみろ!!絶対、オモロいぞ☆」
息子2号「おんぶぅ〜」
パパ 「それは、肩車やないかぁ〜!!ええわぁ〜とりあえず乗っとけ(笑)」
オモシロい事をいっぱいやって、健康に、かつ、逞しく育ってもらえて良かったと思っている。自分とは、まったく違う生き方なので、一先ずは、安心 だ。愛娘は、何とか学校でも、上手い具合にやっているし、様々な事を母親と相談して決めているようだ。息子1号2号は、私に似ず、円満で、比較的、普通に 育っているので、現状、周囲の方々に迷惑を掛けていないのが何よりだ。「勉強しない」と「勉強する」の狭間を全力疾走してきたパパからすると、子供達の今 の状況には、一先ず、ホッとしている。これからも笑顔を絶やさない子供達になるように育ててやるつもりだ。